渓での失敗、笑ってごまかす

  渓の忘れ物

           

 今から20年以上前のことである。250ccのバイクで群馬県の渡良瀬川の支流に通っていた時期があった。
 自宅から日帰りでイワナ釣りができるのが魅力で、夜中に八王子の自宅を出発、夜明けに現地について、午前中だけ釣りを楽しみ、帰り道で食堂に入って昼食を食べるというパターン。釣っている時間よりもバイクに乗っている時間のほうが長かったりするのだが、数は少ないものの、それなりの釣果があるし、イワナ棲む渓の雰囲気に浸れるので、苦にならなかった。
 6月、梅雨の雨が続いたあとの日曜日の未明、ぼくはバイクをそっと押して自宅を後にした。荷台とその両側のサイドバッグには、渓流釣りの道具一式が積んである。
 道路に出てからシートにまたがり、右足でペダルをキックしてエンジンをかける。短くアイドリングしてから、左手でクラッチレバーを握り、右足でギアをローに入れ、アクセルグリップを手前に回しながら、クラッチをゆっくり放すと、ホンダCB250RSはグイッと前に走り出した。
 国道16号から407号で鶴ヶ島へ。ここから関越自動車道を高崎インターまで走り、県道と国道50号をつなぎ合わせて、空が白くなってきたころ、わたらせ渓谷の入口・大間々に着く。そして夜明けの国道122号を走り、釣り場の入口の林道には午前5時過ぎに着いた。エンジンを切ってヘルメットを脱ぎ、山の朝の空気で思い切り深呼吸する。沢音はいつもより大きく、条件は最高だ。
 バイクの横で、さっそく身支度。ズボンをジャージのトレパンに履き替え、ウエーディングシューズを履き、ひざ下までのスパッツをつける。そしてザックの中の仕掛けバッグから仕掛け巻きを取り出し、糸の先をつまんで、竿に、……。
 ところが、ザックに入っているはずの竿が、ない。ぼくの心臓が冷たく凍りついたような気がした。そんなはずは、まさか、と、バイクのサイドバッグまで必死に探したのだが、釣り竿はどこにもなかった。ザックに入っているはずの竿が、ない。ぼう然と立ち尽くすぼくの耳に、沢音がザァザァと無情に響いていた。
 何分かかっただろうか。事態を冷静に受け止められるようになると、このあとの行動をどうしたらいいかを考え始めた。だが、選択肢は二つ。ここまで来たのだから大間々の釣具屋が開くのを待って竿を買って釣りをするか、それともこのまま帰って別のことをするか、である。鉄道写真撮影に切り替えるという選択肢は、なかった。このころは国鉄の分割民営化の前後で、鉄道の将来を悲観したぼくは、「鉄道趣味はやめました」と宣言していたのだ。
 10分ぐらい考えただろうか。ぼくは、まっすぐ帰る道を選択した。自分の失敗は謙虚に受け止めなければならないし、そのほうが後々の自分に役に立つのではないかと考えたのだ。そしてぼくは再びバイクのキックペダルを蹴り、アクセルグリップを手前に回したのである。
 この選択は正しかったと思う。ぼくが釣りに釣り竿を忘れたのはこのときだけで、そして20年を経て、こうして文章にできたのだから。

 実は、釣り竿を忘れたのは、もう一度ある。それは、持って行くのを忘れたのではなく、持って帰るのを忘れたのだ。わたらせの事件の数年前、東京・秋川の、土曜日の午後に初めて入った渓の奥に、釣り竿を忘れて帰ってきたのである。
 釣り上がっている途中で釣り竿を忘れることは、まずない。釣りを切り上げて仕掛けをしまっているときに、竿をザックに入れ忘れたのである。このときは家に帰ってから気がついて、びっくりした。だが、翌日は日曜日なので、方針はすぐに決まった。
 翌朝、再び沢の入口にバイクを停めたぼくは、ザックを背負って沢を奥へと歩き、前の日の納竿地点で無事に竿を回収、再び入口までもどってから、別の沢へと向かったのである。
 「釣り人が釣り竿を忘れるなんて信じられない」と、釣りをしない人は思うだろう。でも、釣りを趣味としている人たちは、きっと思い当たるに違いない。ぼくは、このほかにも「忘れそうになった」ことが何度もある。だから、いつもザックを背負う前に、手探りでザックの中の釣り竿を確認することにしている。失敗した人間は、よく学習するのである。

 しかし、よく学習しているぼくでも、同行の友人の釣り竿まではなかなか気が回らない。今年(2006年)の5月に奥会津・昭和村に出かけたときには、釣友のUさんが、途中で休憩した場所にスペアの竿を置き忘れてしまったらしい。らしいというのは、まだ見つかっていないからである。
 気がついたのが車に戻ってからだったので、何ヶ所かを捜索したのだが、最後に残された休憩地点は、入った沢のずっと奥。そこで、その場所の捜索は来年の5月ということにした。毎年一度の昭和村で、しかも人がほとんど入っていない沢なので、たぶん来年までそのままあるだろう。これで来年の楽しみが増えたというものである。

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