思い出の鉄橋の下で

      
         鉄橋の上を陸羽東線のディーゼルカーが走って行く。
                         2008.5.31  中山平―堺田  
         
 思い出のとき、思い出の列車
 1973年4月13日の朝、ぼくは陸羽東線中山平―堺田間にある鉄橋を見下ろす丘の上で列車を待っていた。
 待っていた列車は、迂回運転の403列車「津軽2号」。上野発奥羽本線経由青森行きの夜行急行である。
 通常ならば、東北本線小牛田と奥羽本線新庄を結ぶ陸羽東線に、夜行列車は走らない。だが、この数日前に奥羽本線の新庄の南で土砂崩れがあったために、この日の「津軽2号」は不通区間を迂回して陸羽東線経由で運転されることになっている。すでにぼくが昨夜新庄まで乗ってきた上野行きの「津軽1号」は、新庄から陸羽東線に入って行ったのだ。
 しかし、いつもと違う路線を走るというだけではない。客車の長い列を引く機関車も違うのだ。当時の奥羽本線の機関車は、まだ新鋭機だったDD51形ディーゼル機関車。しかし陸羽東線の機関車は、この年の春、すなわちあと数週間で引退が決まっているC58形蒸気機関車だったのだ。しかも陸羽東線は奥羽山脈を越えるために勾配がきついため、「津軽」の13両の客車は、本務の機関車の前に補助機関車を連結したC58形の「重連」で牽引される。ぼくは秋田大学鉄道研究会の先輩O氏とともに、陸東のC58の最後の雄姿を捉えるために、この丘の上に立っていたのである。(このあたりは、「鉄路の記憶」の「峠を越えるC58がいた」をご覧ください。)

 汽笛が聞こえ、煙がたなびいてくる。やがて、まだ枯れている林の向こうから、ドラフトの音とともに2両のC58が顔を出した。ゆっくりと近づく重連の後ろには、青い客車が、寝台車が、グリーン車が、13両の長い列を作っている。まぎれもない、C58重連の引く迂回急行「津軽2号」の姿である。眼下を通り過ぎる機関車に大きく手を振ると、前補機の機関助士が、ぼくたちを見つけて、手を振り返してくれた。
(「峠をこるC58がいた」より)
 
  C58重連が引く迂回急行403列車「津軽2号」。 
                  1973.4.13 陸羽東線中山平―堺田

 その、感動の丘の下を流れるのは、大谷川。中山平から鳴子にかけて深い渓谷・鳴子峡を形作って江合川となり、北上川に合流して仙台湾に注ぐこの川の流れの中に、2008年5月31日のぼくがいた。この日は、感動の思い出に浸りながら魚も手にしようというぜいたくな目的なのである。

 鉄橋の下でヤマメを釣った
 2008年のこの日は朝から雨。宮城県まで「はつかり号」でやって来て、雨。だが、渓流釣りはどっちみち濡れるので、雷さえ鳴らなければ釣りはできるのである。それに、思い出の鉄橋の下で釣りをしてみたいという気持ちが、雨に負けなかったのである。
 この鉄橋は、中山平駅から峠の堺田に向かって1.5kmほどの所にある。大谷川が支流の軽井沢と合流する地点を大きく跨ぐ形になっていて、国道から軽井沢に入る林道が鉄橋の下を潜っている。雨の早朝、その鉄橋の下に「はつかり号」を停めて、釣り支度をした。
 軽井沢は何も長野県の専売特許ではなく、石がゴロゴロした沢、というのが語源なので、東北にもいくつかその地名がある。2万5千分の一地形図を見ると、500mほど上がると堰堤があるので、とりあえず鉄橋下から堰堤まで釣ってみることにした。
 沢に入って2つ目のポイントで、アタリがあった。エサをちぎられてしまったが、これで魚がいることがわかって気合が入る。
 だが、もう1回のアタリだけで、あとは魚が出てこないうちに大きな堰堤に来てしまった。竿をしまって鉄橋にもどり、こんどは大谷川本流を釣ることにした。鉄橋の少し下流まで国道を歩き、杉林の横から流れに入る。ここはぼくが高校生のときに鉄橋の上を行く貨物列車を撮ったポイントである。ここで釣れれば言うことないな、と思いながら、護岸の際の深みにエサを落とす。そのとたんに「ゴツゴツ!」というアタリ。アワセると、グンと重い手ごたえ。腰を落とし、竿を立てて少しこらえてからタイミングを計って岸に抜き上げる。銀色のヤマメがドスンと川原に落ちた。
 「やった! これで念願達成だ!」
 ぼくは大きな声で叫びながらヤマメに駆け寄った。
  
   思い出のポイントで釣れたのは25cmのヤマメだった。 2008.5.31
 ヤマメは、少し上のポイントでも18cmが釣れた。でも、25cmをキープしたあとだったので、ずいぶん小さく見え、余裕でリリース。鉄橋の上を走る列車を流れの中から撮り、次の18cmをキープして、雨がだいぶ強くなってきたのでもうおしまいにした。何しろ体が冷えてしまって、魚よりも温泉が恋しくなっていたのだ。
 ずぶ濡れのカッパのまま車を走らせて、ひとまず鳴子寄りの駐車場のトイレで着替えてから中山平温泉の日帰り温泉施設「しんとろの湯」に浸かって、極楽極楽。この温泉、ヌルヌル、トロトロで不思議な感触。地元の人たちがたくさん訪れていた。
         
      流れの中から列車を見上げる。 2008.5.31 中山平―堺田

 
 この鉄橋です。今はだいぶ木が大きくなっています。ちょうど機関車の下の橋脚が、上の写真の橋脚です。   1971.3.23 高校2年が終わる春休み。

 さて、このときの旅の目的はこれだけではない。この翌日の日曜日に伊豆沼(東北本線新田駅近くにある、ラムサール条約登録湿地)でブラックバスの駆除作戦があり、ぼくは初めてそれに参加しに来たのである。伊豆沼は冬にハクチョウやガン、カモなどがたくさん渡ってくることで知られているが、淡水魚の宝庫でもあった。ところが10年ほど前から、密放流されたと思われるブラックバスが繁殖し、在来のモロコやタナゴ、フナ、コイの漁獲量が大幅に減少してしまった。そこで地元の人たちや自然保護団体、行政機関などが協力して、ブラックバス駆除の取り組みをすすめているのだ。
 くわしいことは「田んぼの水路でフナを釣る」のページに近日中にアップするので読んでいただきたいのだが、この取り組み(伊豆沼バスバスターズ)に以前からかかわっている福島県在住のIさんが、翌日の夜明けから「バスバスターズ」の集合時刻前に近くの沢を案内してくれたのである。

 ルアーマンのイワナ釣り
 Iさんは「Fish of Fresh Water」というホームページを持っていて、ぼくとはインターネットで知り合いになった。初めて顔をあわせたのは、2006年の秋、宮城県大崎市古川で開かれた、「ブラックバス駆除と水田魚道による自然再生」というシンポジウムの会場である。これは地元の「シナイモツゴ郷の会」が中心になり、西日本からも報告者が参加した大がかりな集会だった。(この報告は「田んぼの水路でフナを釣る」の中の「二つのシンポジウム」に載せてあります。)
 その後はメールのやりとりをするだけだったのだが、ぼくが「伊豆沼バスバスターズ」に初参加することをメールで送ったら、夜明けからのイワナ釣りに誘ってくれたのだ。
 6月1日(日)、まだ夜中の3時半にぼくの宿泊するビジネスホテルにIさんが迎えに来て、ぼくはIさんの車に乗せてもらって、Iさんの行きつけの沢へと釣れて行ってもらった。ぼくの行きつけではなくIさんの行きつけなので、場所は伏せさせていただく。
 Iさんはルアーマンである。いや、本人は「ルアーマン」と言われるのを嫌がっているそうで、「ルアーを使って渓流釣りをする人」と呼ぶことにする。
 このIさん、自宅の近くにヤマメの泳ぐ川が流れているという大変恵まれた環境で、朝、ちょっと竿を出してから仕事に出かけることもあると言う。そのIさんが伊豆沼のバスバスターズに出かけるときに早朝訪れる沢は、ぼくの好みにもぴったり。雨も上がった朝のひとときを楽しむことができた。

                        ルアーを振り込むIさんです。
 ぼくは渓流のルアー釣りを間近で見るのは初めて。ボサの多い沢なのに、Iさんはいとも簡単にルアーを飛ばし、リールを巻く。
 「フライでも、上手な人はこのくらいのボサは平気ですよ。でも、ルアーのほうが扱いやすいですね。」
 そう言いながら竿をあやつるIさんに、イワナがかかった。塩焼きにちょうどいいくらいのイワナだ。
 「おおほさん、これはおみやげに。」
と言って、ぼくのビクに入れてくれた。
  
   Iさんのルアーに出たイワナ。斑点が大き目の東北のイワナだ。

  
                   ぼくのミミズに22cmが出た。
 2時間ほど釣りあがったところで納竿。ぼくは自主的リリース1尾、結果的リリース(写真を撮ろうとしてカメラを出す間にバレてしまった)1尾、そしてキープが2尾。Iさんからもらった1尾を合わせて3尾のイワナをお土産にすることができた。
 釣果は少なかったけれど、宮城の渓で素敵なイワナに会えたことがうれしかった。ぼくとIさんは、十分に満足した気分で、この日のメイン、伊豆沼バスバスターズに向かったのである。
 
(この2週間後に岩手・宮城内陸地震が起き、この地域の山間部では大きな被害を出しました。死者・行方不明者は20人近くになっています。2週間前にIさんと行ったこの沢は、Iさんからのメールでは、沢自体が壊滅してしまったとのこと。まったく驚きました。亡くなった方のご冥福と、行方不明の方々の一刻も早い救出を願うものです。)

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