田んぼの水路でフナを釣る 12 水郷の6月 |
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6月24日(土)、今年初めて木の下旅館に投宿した。 木の下旅館は、水郷佐原の小江戸の面影を残す小野川沿いに建っている。明治時代の建築で、文化財がそのまま旅館になっている雰囲気だ。もう10年以上前からの、ぼくの定宿である。最初に泊まったときのことは、「駅前旅館に泊まるローカル線の旅」(ちくま文庫2002)に書いているので、まだの方は読んでいただきたい。 「フナに始まる」 「駅前探検倶楽部」という情報サイトに「駅の記憶」という読み物ページをアップしているSさんから、魚釣りをしたいというメールが来た。子どものころに故郷の川で釣りをしていたというだけの経歴なので、「イワナを釣りたい」という要望を、とりあえずフナに変更してもらって同行したのである。 待ち合わせは土曜日の午前11時、木の下旅館の前。Sさんの車を駐車場に入れて、ぼくの「はつかり」号に乗ってもらい、まずは釣具屋で道具を調達して、釣り場へ向かった。 最初の釣り場は、霞ヶ浦の入江に架かる稲敷大橋の近く。水が少ないのでダメかと思ったが、ウキがちゃんと動き、フナがしっかり釣れたので、Sさんは大満足だった。 田んぼの畦で喜ぶSさん。
1時間半ほどここで楽しんでから、横利根川の東側、長島地区に移動。ここも同じくらいのサイズの水路で、5月にUさんと来たときにも寄った、ぼくのテリトリーの一つである。 ミミズをつけた仕掛けを入れたら、すぐにウキがスーッと横に動く。「来た来た」とアワセると、これが何と重い。20センチをだいぶ越えているようだ。「あれぇ、コイが掛かっちゃったか?」と、Sさんに網を持ってきてすくってもらったら、これがマブナ。Sさんは、「これが今まで釣っていたのと同じフナなんですか?」と、びっくりしていた。大きすぎるのでもちろんリリース。 そのあとはSさんに小ブナが1尾釣れただけでアタリがなく、ほかの場所もいくつか見たが、ビールが飲みたくなったので、旅館にもどることにした。
小江戸散策、ビールつき 木の下旅館の今回の部屋は、小野川に面したふた間続きの景色のよい部屋。いつもはグループ客に使われているのだが、この日は工事で長逗留している客たちのほかは観光客がいなかったためか、ぼくたちが恩恵にあずかることになった。 風呂から上がっても、きょうはまだ5時。そこで、小野川べりを散歩することにした。もちろん、缶ビールつきである。 佐原は江戸時代から、北国からの東回り航路と江戸を結ぶ舟運の中継点として栄えてきた。銚子河口で千石船から川舟に積み替えられた荷物は、利根川を上り、佐原や木下(きおろし)などの河岸を経て、関宿から江戸川(小利根川)に入って大消費地・江戸へと運ばれた。その佐原の河岸がここ小野川べりで、明治時代になってもその繁栄は変わらなかった。木の下旅館の建物はそのころ建てられた。 鉄道輸送の時代となって、舟運は次第に廃れ、当時をしのばせる町並みが残った。佐原市(現・香取市)では、この町並みを保存して観光客に供する施策を進め、建物の改築に当たっても、景観に配慮した場合には補助金を出している。そのため、小野川べりの景観は、ぼくが初めて訪れたときよりも、「小江戸」の雰囲気が濃くなっている。 佐原は、江戸時代末期に全国を測量して日本地図を作った伊能忠敬の出身地としても知られている。近くには忠敬が名主として住んでいた住居や、伊能忠敬記念館もあり、多くの人たちがこの川べりを散策している。 ぼくたちは、缶ビールを飲みながら、この水の郷の風景を楽しんだ。
朝飯前の楽しいひととき 翌朝は、5時起床。涼しいうちに2日目の釣りを楽しみたい。水郷大橋を渡り、右に折れて横利根川の水門を渡り、利根川の北岸の土手を東へ走る。JR鹿島線の高架をくぐり、東関東自動車道をくぐり、利根本流と常陸利根川に挟まれた細長い新田地区に入って、小見川大橋近くで田んぼの畦道に乗り入れた。 ゆっくりと車を走らせていくと、マコモが茂った素掘りの水路があった。これはおいしそうである。 「ちょっと様子を見てみましょう。」 水の色もよく、水面をのぞくとメダカの群れが逃げて行く。これは有望だ。ぼくはSさんに声をかけて、車を降り、後ろのドアを開けて仕掛けを準備した。 まだ準備をしているSさんの横で、マコモの先に第一投。すると、すぐにウキが横に動いて行く。軽くアワセると、これがずっしりと重い。水の中で魚があばれたと思ったら、次の瞬間、ピシッと糸が宙を舞った。0.4号のハリスが切られてしまったのだ。 大きな魚がかかって暴れると、ほかの魚が驚いてしまってしばらく釣れないことが多い。ぼくはがっかりしながらハリスを付け替え、ミミズをつけて、さっきの場所から少しはなれたところに仕掛けを入れた。この場所、マコモが茂っていないところが10mほど、幅は4mほどしかないのだ。 それでも、間もなくウキが動いた。ゆっくりとしたフナのアタリだ。少し待ってから軽くアワセると、ちょっと重い。12cmほどのフナがぼくの竿をしならせて上がってきた。 この場所ではぼくもSさんもフナをいくつか釣り、おまけに網でメダカもすくって、早朝の散歩は大満足。すきっ腹にしみる利根の川風を気持ちよく受けながら、朝食の待つ宿に向かったのである。
「中干し」の田んぼ 水郷地帯の田んぼはこのとき、「中干し」の時期を迎えていた。 「中干し」とは、田植えから2ヶ月近くたち、イネが成長とともに茎を増やそうとするときに、それ(分けつ)を押さえて根をしっかり張らせるために、湛水していた水を落として1週間ほど土を乾かす方法。現在はどこの田んぼでもこの「中干し」を組み込んでいる。 稲の生育にとって必要といわれるこの「中干し」は、田んぼの生き物にとっては受難のときである。何しろ、当てにしていた水がなくなってしまうのだ。
木の下旅館の朝食をすませたぼくとSさんは、2台の車で中干しの田んぼを見て回り、与田浦の畔の千葉県立大利根博物館へ。(機構改革されたらしく、千葉県立中央博物館大利根分館」という変な名前になっていた。)ここでSさんとお別れである。Sさんはこのあと鹿島神宮へ、ぼくは田んぼを見回りながら八王子にもどるのだ。 佐原から大戸、神崎(こうざき)、滑河(なめがわ)と、JR成田線沿いの畦道を走る。成田空港の進入路の下あたりで、給水口の近くだけ水が残っている田んぼを見つけて、車を停めてタモ網を取り出した。 給水口のコンクリート壁の中に網を入れてびっくり。たくさんの小魚が網に入ったのだ。生まれて間もないミニブナやモツゴの子、そしてカブトエビもいた。 この生き物たちは、このまま数日が経てば水がさらに減り、運がなければ死んでしまうかもしれない。助けようかとも思ったが、すでに荷台のクーラーボックスは学校のビオトープ要員で一杯である。かわいそうだが、そのまま運を天に任せることにした。ぼくはため息を何度もついて、魚たちをわずかな水の中にもどしたのだった。
もちろん、ぼくにできることは少ししかないのだが、とりあえず、ぼくの勤務する小学校で今年完成した学習用の田んぼの「中干し」を取りやめることにした。米の収穫は減るかもしれないけれど、もっと大事なものを子どもたちに見せたい。それが学校現場にいるぼくの務めだと思った。 1泊2日の水郷の旅は、そんなわけで、ぼくにたくさんの収穫をもたらしてくれたのである。 「タモロコと東北新幹線」に泳ぐ 「田んぼの水路でフナを釣る」のトップにもどる ホームページのトップにもどる |