三陸の海辺から北上山地へ

東北ローカル線旅日記  5

  北国の春/大船渡線
  

   
                       2000.4.30.細浦
 北国の桜を見に行くのが好きだ。
 3月の終りの1週間に、九州から関東地方南部まで一気に北上した桜前線は、東北本線に沿って青森まで北上するのに1カ月をかける。4月、東京の桜が散ってからも、列車に乗れば、毎週末に、どこかで桜を見ることができる。冬の寒さや残雪の量によって、思いがけない花見に出会う楽しさは、北国の春だけのものだ。
 残雪の頃に咲くマンサクやコブシが散ると、ウメ、アンズ、そしてサクラと、春が駆け足でやって来る。サクラの花吹雪のあとは、モモ、リンゴと続き、山では山菜採りのベストシーズンに入る。冬の寒さと雪の重さにじっと耐えた北国の春は、喜びもひとしおに見える。
 東北本線の一ノ関から、北上高地の南の端を越えて三陸の海辺の町を結ぶ大船渡線の沿線にも、素敵な桜の風景がたくさんある。岩手県の中では春が一番早い三陸の気仙地方だが、それでも4月も後半に、やっと桜の季節に入り始める。大船渡線沿線でも一番標高の高い室根村の桜は、5月の連休にならないと咲かないという。列車に乗っていると、冬と春が30分で入れ替わる、この時期の旅だ。
 大船渡の街に近い細浦の駅には、ホームの両側に桜の並木がある。駅ができたときに植えられたのだろう。交換設備が撤去され、無人駅となった今でも、桜は鉄道に対する人々の思いを伝えてくれる。



              
2000.4.29. 陸中門崎―岩ノ下


  大船渡線のディーゼルカーはキハ100型。2両編成が猊鼻渓入口の鉄橋を渡る。
                  2000.4.29. 猊鼻渓―柴宿


 大船渡線は、東北本線の一ノ関から東へ、北上高地の南の端を横切って、三陸の気仙沼に出る。気仙沼からは、仙台から八戸に至る「三陸縦貫鉄道」の一部として北へ向かい、大船渡市の盛駅が終点になる。盛からは、スイッチバックする形で、三陸鉄道南リアス線が連絡している。
 大船渡線は、鉄道建設が政治によって曲げられた典型として知られている。一ノ関から東に向かった鉄路は、川崎村の陸中門崎で向きを北に変え、東山町の猊鼻渓からまた東へ直り、大東町の摺沢で今度は南に転じ、千厩からまた東に進む。ちょうど、一辺が10kmほどの四角形の三辺を迂回しているのだ。周辺の町や村のせめぎ合いは、それぞれの住民には鉄道の恩恵をもたらしたけれど、一ノ関と気仙沼の道のりは5割近く増えてしまった。
 一方、国道は一ノ関から気仙沼まで、まっすぐに通じているので、バスは70分で両市を結んでいる。鉄道では、性能のよいキハ100型でも80分で、値段はほぼ同じ。通学の足ではあっても都市間輸送はバスに押されている今の鉄道の典型だ。
 JRでは、大船渡線を、その地図上の路線の形から、「ドラゴンレール」と名付けて、時刻表にもその名前を載せている。こじつけみたいで、ぼくはあまり好きではないが、北上山地南部の里山を縫う様に走る大船渡線は、大好きだ。

 
 
   
東北砕石工場時代の宮沢賢治に会った。(後列右から4人目)
                 2000.4.29. 陸中松川駅近くのジオラマ。



 
 春。まだ肌寒い朝の空気の中を、一番列車が駆け抜けて行く。
                        2003.5.3.  摺沢―千厩
 夏休みの日曜日、午後の列車に、千厩の駅からテニスの部活の帰りらしい女の子たちが、かき氷を食べながら乗ってきた。ぼくの向かいのロングシートに座った子たちは、となりの子に、スプーンに氷を乗せて「アーン」と食べさせたり、賑やかにおしゃべりをしたりして、とても楽しそう。てっきり中学生だと思っていたら、後ろを向いた子の背中に、「大東高校」とある。ぼくの職場の女性の同僚の出身校である。もう50歳を過ぎているその人にも、こんな時代があったのだろうと、何だかこっちも楽しくなってしまった。
 次の摺沢の駅で4人が降りたが、残った2人は、となり同士に席を移って、また笑顔でおしゃべりを続けている。そして1人が柴宿で、最後の1人が猊鼻渓の駅で降りて行った。代わりに、ケバい大人の女性の観光客が何人も乗ってきて、雰囲気が変わってしまったので、ぼくは運転士の横に立って、前方の景色を楽しむことにした。
 一ノ関の一つ手前の真滝で、ヘビメタ調の衣装を身につけた男の子が乗ってきた。トゲトゲの腕輪などをしているが、首から上はふつうの男の子である。そして、「オッ、一番前に乗ってたんですか」と、ぼくの隣に座っていた、ジーンズの受験生風の女の子に声をかけた。そのあとの会話がぎこちないので、景色を見たまま耳を澄ませていると、高校生らしいこの二人は、どうやら待ち合わせて一ノ関まで出かけるらしい。付き合い始めて間もない二人のようである。風体はミスマッチだが、自分と違う雰囲気の子が何となく気になる、ということか。ぼくは、少しのうらやましさを感じながら、小さなため息をついた。
 それぞれの日曜日を乗せて、列車は一ノ関駅の場内信号機を、ゆっくりと通過して行った。



 
一番前は、やっぱり子どもの専用席。 2003.8.3.折壁


 
  雨上がりの朝、一ノ関行きが到着した。 2003.8.26. 千厩


                       陸中門崎の朝。   2003.8.26.


 大船渡の街は、湾の一番奥にある。 2003.8.9. 下船渡―大船渡


 里の駅で。  1976.1. 陸前矢作

   
  急行列車が、タブレットを渡して通過して行く。 1976.1. 上鹿折


 
岩手開発鉄道  石灰石を積んだ貨物列車が走る
      
                                      長安寺―日頃市
 岩手開発鉄道の名前は、時刻表には載っていない。1992年に、旅客営業が廃止されているのだ。だが今も、石灰石を積んだ貨車を、ディーゼル機関車が引いて走っている。  
 岩手開発鉄道は、大船渡線盛駅の海沿いにあるセメント工場から、盛川に沿って石灰石鉱山のある岩手石橋まで、約10kmの小さな貨物専用鉄道だ。ぼくがはじめて訪れた1975年には、もちろん小さなディーゼルカーが1日数往復していて、ぼくは盛から終点の岩手石橋までを往復して戻ってきた。
 時刻表からこの鉄道が消えてしばらく経ったある日、旅に出ていたぼくは、車で大船渡から北上へ向かう国道107号に入った。すると、川の向こうに小さな踏切標識が見える。ああ、廃止になった岩手開発鉄道だな、と思って、走りながら視線をチラチラと右に移していると、どうもおかしい。踏切もレールも、そのまま残っているような雰囲気なのだ。まさかと思いながらも、ぼくは右に入る小道にジムニーを乗り入れて、線路端に停めた。レールを見て、ぼくの体に衝撃が走った。そのレールは銀色に光っていたのだ。まだこの鉄道は生きていたのである。
 ぼくの情報不足によるとは言え、廃止されたと思っていた鉄道が生きていた感激はあまりに大きかった。貨物列車がネットダイヤで走っていたことを思い出したぼくは、車を停めたまま、カメラを用意してしばらくそこで待つことにした。感激をさらに確かなものにしたかったのだ。
 しかし、30分待っても、40分待っても、列車は来なかった。ぼくは、キツネにつままれたような気持ちで、ジムニーのエンジンキーを回した。
 東京に戻ってから、岩手県の鉄道事情にくわしい先輩に電話をかけたら、あっさりとした答えが返ってきた。
 「セメント工場にある、石灰石のストックヤードの残量との関係で、運転日は朝からネットダイヤで貨物が走る。休みの日は何も走らん。」
 ムムム、なるほど……。
 

  ディーゼル機関車は国鉄DD13タイプ。あくまでも地味な機関車である。交換駅は長安寺と日頃市。これは長安寺で交換する上下の列車。

 夏に東北に出かけるとき、今度は前もって、岩手石橋駅に電話をかけて、運転日を聞いた。セメント工場は不況で減産体制が続いている。だから、石灰石を運ぶ列車は、運休の日も多いのだ。それでも、旅行の日程を運転日と合わせることができた。
 岩手開発鉄道は、大船渡市赤碕の工場から、JR大船渡線と三陸鉄道が接続する盛駅を通り、そこから鉱山のある岩手石橋までは、盛川の流れに沿って走る。そして、盛川には、ヤマメがいる! ぼくは、長安寺で交換する列車を撮ったあと、上流の日頃市駅(ここも交換設備がある)に車を停めて、足回りを釣り支度に替え、盛川に入った。
 小さなヤマメばかりしか釣れなかったけれど、時おり川岸の茂みの向こうを、ディーゼル機関車に引かれた貨車の列が、ゆっくりと通過して行く。木漏れ日を浴びながら、ぼくは、至福のときを過ごしていた。

 
  
 1975年、ぼくはこのディーゼルカーに乗って岩手石橋まで往復した。
       1975.7.  盛

 
  長安寺で石灰石列車と交換。車掌さんが乗客の安全を確保している。 1975.●  

 気仙沼線 
   
 
仙台からの快速「南三陸」にジョイフルトレイン「こがね」を併結した6両編成。
   2003.8.19. 志津川―清水沢

 気仙沼線は、仙台から三陸沿岸を八戸まで結ぶ「三陸縦貫鉄道」の、一番南の部分を形成している。
 気仙沼線は、比較的新しい線区だ。全線開業は1977年。まだ、国鉄分割民営化の嵐の前だったので、三陸鉄道区間のような、第三セクターでの開業にならずにすんだ。
 仙台を発車した気仙沼行き快速「南三陸1号」は、東北本線の架線の下を、キハ40系特有の鋭角的なエンジンの音とともに快走する。ノンストップ35分で小牛田に到着、ここから右へ、石巻線に入る。15分で気仙沼線の分岐駅・前谷地。左に大きくカーブを切って、気仙沼線へ。
 前谷地から快速で17分の柳津までは、1968年に「柳津線」として先に開業している。国鉄の赤字ローカル線問題がマスコミに取り上げられる中での開業だった。
 柳津から志津川を経て本吉までが、1977年に全通開業した区間。トンネルも多いが、列車のスピードも速い。
 海の景色がいいのは、新線区間の陸前戸倉から志津川、そして1957年に開業している本吉から小金沢、大谷海岸、陸前階上あたりだ。座席はもちろん、進行方向右側にとる。
 
  実質的な起点の小牛田駅に停車中の「南三陸2号」。元・急行型のキハ28が、リクライニングシートを装備して座席指定車に使われている。  2003.6.14.
 

 仙台平野の北東部は、川の流れが入り組んだ水郷地帯。鉄橋は鳴子から流れて来る江合川にかかっているが、右から旧北上川が合流している。 2003.8.19. 和渕―のの岳

   
   雨上がりの朝、上り列車が到着する。 2003.8.19. 和渕

  
   ジョイフルトレイン「こがね」は、仙台を起点に東北本線、大船渡線、気仙沼線などに運用されている。  2003.8.19. 本吉―小金沢
 JR東日本の東北地方の支社(仙台・盛岡・秋田)では、それぞれ団体列車や臨時の観光列車に運用する豪華な設備の車両を持っている。観光シーズンには、座席指定料金だけで乗れる快速列車として運転され、鉄道ファンだけではない、広い層の人気を集めている。
 一番知られているのは、秋田支社が五能線に運転している「リゾートしらかみ」だが、盛岡支社では、青森を中心に運転される「きらきらみちのく」、岩手県内に、宮沢賢治から名をとった「Kenji」(「ぐるっとさんりくトレイン」など)、そして仙台支社では気仙沼線にも運転される「こがね」がある。こうした「ジョイフルトレイン」の運転には、鉄道の、特にローカル線の魅力を旅行客に知らせて、新幹線の利用客増加にもつなげようという、積極的な経営姿勢が感じられる。

 気仙沼線の走る宮城県本吉郡志津川町は、リアス式海岸の湾に面した漁業の町だ。そして、日本で最初にギンザケの養殖を手がけた町だ。この町に鉄道が開通した1977年ごろから、志津川町は、リアスの入江で北アメリカ原産のギンザケの養殖を始めている。
 ちょうどこのころ、北海道を中心としたサケの漁獲量が落ち込んでいて、安定供給ができる養殖物の生産が求められていたのだ。だが、ギンザケの養殖が軌道に乗ったころから、日本のサケの人工孵化、放流事業がすすんで国産のサケの供給が増え、さらに、大手水産会社が南米のチリで、ギンザケの養殖を始めた。天然物も養殖物も供給過剰で値が下がり、志津川ではギンザケ養殖から撤退する漁業者も増えてしまった。
 ぼくは、10年ほど前に志津川漁協を訪れてギンザケ養殖の現状を聞き、市場での水揚げ風景を見学しているのだが、その当時よりさらに状況は厳しくなっている。今、スーパーなどに並ぶギンザケの多くは、チリからの輸入物だ。
 それにしても皮肉な話である。実は、志津川町の海岸近くの公園には、この町とチリとの友好関係を結んだ記念碑が建っているのだ。
 1960年に遠いチリで起きた大地震は、チリ国内に大きな被害を与えただけでなく、津波が太平洋を越えて日本の沿岸に押し寄せ、三陸地方を中心に、142人の犠牲者を出した。津波の高さは最大で6メートルに及んだ。
 1990年、このチリ地震と津波から30年を経て、チリと志津川町は、友好関係を結んでいる。それは、志津川で成功したギンザケの養殖技術をチリに伝えた、ということも含まれてのことだろう。しかし、見上げる記念碑の上の、津波の高さを示す線に驚きながら、ぼくは、輸入ギンザケは第二のチリ津波ではないかと思った。
 三陸の海の景色はとてもすばらしい。だが、その景色の中には、津波の被害も、そして海外からの輸入品に押される人々の姿も含まれているのだ。


  
          ●     


 
低気圧の通過で、この朝は海が荒れていた。2000.3.30. 小金沢―大谷海岸


 
新線区間は、トンネルを出ると駅がある。 2000.3.28. 陸前港
    2000.3.28.小金沢―大谷海岸

                    
 
釜石線   21世紀の銀河鉄道
 
   遠野郷の春   2003.5.3. 岩手二日町―綾
 ぼくが宮沢賢治に初めて出会ったのは、小学校6年生の国語の時間。あの「雨ニモマケズ」の詩である。担任の教師はこの詩を暗記する宿題を出し、ぼくは一生懸命練習した。詩は覚えたけれど、宮沢賢治を好きになることはなかった。
 賢治への認識を新たにしたのは、中学3年生のときだ。書店でたまたま買った鉄道趣味の本に、鉄道ファンとしての宮沢賢治のことが紹介されていた。ぼくは、いっぺんに彼の世界にのめりこんでしまった。
 彼の作品の中の岩手の風景に接したのは、秋田大学に入学してから。
 岩手山麓を走る東北本線の写真を撮りに出かけたときには「滝沢野」という詩を、岩手山から八幡平までを縦走したときには「岩手山」を、そして遠野郷の秋を走る釜石線では、彼の作品にしばしば登場する「岩手軽便鉄道」の風景を思い浮かべた。
 岩手軽便鉄道は、賢治の成長期にあたる1913年から1917年ごろにかけて、彼が生まれた花巻から陸中海岸の釜石に向けて建設が進められた。軽便鉄道としての開通は花巻から仙人峠の中腹までで、そこから索道(簡易ロープウェイ)に連絡し、釜石側の大橋から、日鉄釜石鉱山鉄道に乗り換えて釜石に至るルートだった。
 岩手軽便鉄道の経営は厳しく、仙人峠のトンネル掘削に至らずに1936年に国鉄に買収された。国鉄では、線路幅の狭い軽便鉄道を、国鉄の1,067ミリ軌間に広げるとともに仙人峠を南に大きく迂回させるルートを選択し、大橋付近にはΩ(オメガ)ループのトンネルを掘削することにした。工事は戦争で中断したが、1950年に、釜石線として全線が開通した。
 仙人峠の連続トンネルを抱える釜石線へのディーゼル機関車の投入は早く、1966年とのこと。ぼくが初めて釜石線を訪れたのは、DD51型ディーゼル機関車が活躍していた1973年である。
 賢治は、東北本線よりも、小さな軽便鉄道をたくさん作品に登場させている。彼は単に車両だけでなく、駅や信号機などの鉄道施設、そして岩手の風土と人々の生活の中に息づく鉄道情景を、心の中でファンタジー化していく。彼は、大正時代に、すでに完成された鉄道ファンであったのだと、ぼくは思っている。

 うやく芽吹きが始まった山腹に、サクラがほんの少しアクセントをつけている。仙人峠への鉄路である。   2003.5.3. 足ヶ瀬―上有住
 
 北上高地の南部を走る釜石線の車窓は、一つ南の大船渡線と似ている。車両も同じキハ100型なのだが、釜石線のほうが風景が大きい。北上川の支流、猿ヶ石川に沿い、丘の間を抜け、時には崖伝いに体をくねらせて、1時間近く走ると遠野盆地の広々とした風景に出る。しばらくは、おだやかな田園風景だが、足ヶ瀬から右に折れて足ヶ瀬トンネルを抜けると、列車は山腹の崖を巻くように走り、滝観洞(鍾乳洞)のある上有住に停車。ここからさらに長いいくつものトンネルを経ると、不意に右のはるか下、谷の向こう側に別の線路が見える。これがΩループで、数分後に列車は見えている下の線路を走るのだ。
 北上高地南部では、北上川水系と三陸沿岸との分水嶺が海岸近くに片寄っているので、北上平野からゆるやかに上って行った列車は、分水嶺から一気に海岸に出ることになる。
 この仙人峠の山には鉄鉱石の鉱脈が走っていて、かつての釜石製鉄所に鉱石を送っていた釜石鉱山は、ちょうどΩループのあたりにある。今は鉄鉱石の採掘はしていないが、坑道の奥から湧き出る水をペットボトルに詰めて「仙人秘水」として売り出している。

 宮守の道の駅近くのアーチ橋、通称「めがね橋」。コンクリートの橋脚の手前に、軽便時代の石積みの橋脚が残っている。観光シーズンにはライトアップされるとか。  2003.8.4.  宮守―柏木平

 釜石線で最近有名になったのが、2つのコンクリートアーチ橋。岩根橋―宮守間の「岩根橋」と、宮守―柏木平間の「めがね橋」だ。地元の宮守村では、この2つの橋を村のシンボルとして位置づけている。鉄道ファンには岩根橋のほうが知られているが「めがね橋」(宮守川橋梁)のそばには道の駅があり、川に下りて橋を見上げることができる。
 このアーチ橋と、仙人峠のΩループ(地元では「タコトンネル」と呼んでいる)が釜石線の「名所」だが、ぼくはもう一つ、遠野盆地の風景を加えたい。
 「民話の里」として、遠野は今や全国的に有名だ。駅も町並みも、資料館も、観光客をひきつける十分な装いになっている。でも、ぼくは、観光客向きになりすぎた施設よりも、遠野盆地の、そのままの風景に魅力を感じている。芽吹き前の山肌にポツンと咲くヤマザクラ、畦に沿って走る水の音、青田を渡る風、そして秋の日差しに揺れるススキの穂、……。
 遠野を訪ねたら、ぜひ、どこかの無人駅で降りてみてほしい。きっと、風が歩く道を教えてくれるだろう。

   
 軽快なジョイントの音が、春の山にこだまする。
     2003.5.3.  平倉―足ヶ瀬


  
ヤマザクラが映え、水音が光る。 2003.5.3. 平倉―足ヶ瀬


  
夏の夕方近く、雲間から一瞬、光が差してきた。2001.8.18. 綾織―遠野 

  
  
  土沢駅の朝。夏休み中だが、高校生たちの姿が多かった。
                                  2003.8.4.



 釜石線の駅には、銀河鉄道をイメージした名前がつけられている。宮守は、「ガラクシーア カーヨ」(銀河のプラットホーム)。腕木信号機は、もちろんイミテーション。    2003.8.3. 宮守

 宮守村の家並みを見て。  2003.8.4. 岩根橋―宮守


 夏の青田の匂いが好きだ。 2001.8.18.    岩手上郷―平倉


 宮守村のもう一つのアーチ、岩根橋を渡る貨物列車。 1975. 岩根橋―宮守


 岩手二日町駅から少し離れた林で、馬が運材作業をしていた。  1975.



山田線

 
 区界駅の朝  盛岡行きの、朝1本だけの通学列車がやって来た。
     
1994.9.29.

 東北新幹線で盛岡に着き、在来線のホームに停まっているディーゼルカーに乗り換えると、不思議な懐かしさを覚える。ぼくが30年以上も前に初めて東北を旅したときに乗ったディーゼルカーが、ここではまだ現役で活躍しているのだ。
 盛岡から宮古へ向かう山田線は、2つ目の浅岸を過ぎると、もう山里の景色の中だ。そして次の上米内からは、人家のほとんどない深い谷間に入って行く。あまりの景色の変わりように、初めて山田線に乗った人は、さぞびっくりすることだろう。
 カーブとトンネルと鉄橋が、くり返しくり返し過ぎて行く。エンジンの音を響かせて、列車は勾配を上り続ける。ふとエンジンの音が静かになり、運転士がタイフォンを2回鳴らすと、列車は峠の駅、区界に到着する。
 北上高地の北部を走る山田線の風景は、深い谷ばかりである。峠の区界から次の松草あたりまでは、それでも高原の景観なのだが、あとは閉伊川の谷にへばりつくように、列車は走り続けて行く。

 山田線は、盛岡から北上高地を横断して宮古へ、そしてリアスの海辺を南へ釜石まで走る。宮古―釜石間には新型のキハ100、キハ110系、それに三陸鉄道から乗り入れるディーゼルカーが走っているが、急勾配の続く盛岡―宮古間には、支線の岩泉線とともに、エンジン2基を搭載したキハ52型、キハ58型という、国鉄時代からの車両が使われている。山田線の「海線」と「山線」は、まるで別の線区のようだ。
 山田線の盛岡―宮古間の列車本数は、極端に少ない。盛岡から出る宮古行きは、1日わずか4本。しかも始発列車が10時48分(!)。区間列車は少しあるものの、もう、通学の高校生のためにしかたなく走らせているような、山田線なのである。
 県庁所在地の盛岡と、三陸海岸の中心と市の一つである宮古を結ぶ列車本数がこんなに少ないのは、並行する国道を走る急行バスに客を取られているためだ。岩手県北バスの「106急行」は、1日20便以上運行されていて、新幹線からの客の多くを盛岡駅前から運び去っている。所要時間と運賃はほぼ対等だが、本数の違いは決定的だ。まったく悔しい限りである。
    
  
区界駅は、区界旅館の正面にある。 

 山田線は、盛岡と三陸海岸を結ぶために、1920年に、盛岡から建設が始められた。1923年に上米内、1928年に区界までと小刻みに延伸、1934年には宮古まで、そして1939年に釜石までの157.5qが全通した。
 しかし1947年には、台風のために、閉伊川の谷を走る平津戸―蟇目間が不通となり、1954年の開通までに、7年間もかかる事態となった。この不通が、当時建設途中だった、バイパス路線としての釜石線の工事を促進した。釜石線は1950年に全通、宮古方面への物資輸送や山田線の復旧工事に貢献したというエピソードが知られている。
 
  2001年秋に、JR盛岡運転区所属のディーゼルカーのうち、キハ58型6両(2両ずつ3編成)と、キハ52型2両が、赤とクリームに塗り替えられた。これはもちろんファンサービスのためで、JR盛岡支社では、ホームページで「国鉄色」の車両の運用を公開している。この効果は抜群で、これらの車両が走る花輪線、山田線、岩泉線を訪れる鉄道ファンが増えた。車で来て撮影するファンもいるが、首都圏から遠いこともあって、東北新幹線を利用してやってくるファンも多い。盛岡からレンタカー、というファンであっても、東北新幹線の客になるので、収入の面でもヒット商品と言えるだろう。
 また、観光シーズンには、外見と内装を豪華にしたジョイフルトレイン「Kenji」(宮沢賢治からのネーミング)を使った「ぐるっとさんりくトレイン」を運転するなど、観光客を鉄道に呼び戻そうという姿勢が感じられる。鉄道は、その存在自体が観光資源になりうるという特性を持っている。何とか、バスにも負けず、がんばってほしいものだ。
 
       
               
 2002.8.17. 浅岸


 
   北上山地の奥深く、ディーゼルカーが山腹をよじ登るように走る。
                         2003.5.6. 大志田―浅岸


 
 
夕方、山の駅に降りる人たち。  2003.8.7. 陸中川井


 かつてスイッチバックの駅だった大志田には、保線機械用のポイントと引込み線が残る。この駅に停まる列車は、上下合わせて1日3本! ぼくはこの駅で乗り降りする人を見たことがない。この列車(653D)も、実は通過列車なのである。 2003.5.6. 大志田
 
  盛岡行きの最終列車が、雨上がりのホームにアイドリングを響かせている。塗色は懐かしい「国鉄色」だ。      2003.7.6.  区界


 列車は幾度となく閉伊川を渡り、渡り返す。 2001.8.21. 陸中川井―腹帯


 同じ山田線でも、海沿いの宮古―釜石間には、釜石線からのキハ100、キハ110系が使われていて、雰囲気が違う。三陸鉄道からの乗り入れもあり、賑やかだ。
                          2003.7.6. 浪板海岸
  
 波板海岸の朝。  2003.7.6. 岩手船越―浪板海岸
    
   区界高原を走る急行列車。  1973.10.● 区界―松草

 岩泉線   山を越えても山があり



                    1994.9.29. 押角―岩手大川
 東北新幹線で盛岡まで来て、陸中海岸の宮古方面に向かう人の多くは、山田線ではなく路線バスを使う。国道106号線を走る岩手県北バスの「106急行」が、今やこのルートの主役なのだ。
 盛岡から宮古へ向かう列車が1日4本しかない山田線の茂市駅から、さらに峠を越える枝線が、かろうじて生き残っている。岩泉線である。茂市から峠のトンネルを越えた浅内までは1957年までに、日本有数の鍾乳洞「龍泉洞」のある岩泉までは1972年に開業した。岩泉からさらに現在の三陸鉄道小本まで建設される予定だったのだが、その可能性はない。
 岩泉から県都・盛岡へはJRバスと岩手県交通が共同で直通バスを1日4便運行している。バスで盛岡までは2時間15分。鉄道では、乗り換え時間も含めて3時間以上もかかる。
 山を越えても山があり、谷を渡っても谷がある。幾重にも連なる山並みは、秋の初めの雨に煙っていた。暗い緑の山ひだの向こうから、ヘッドライトがゆっくりと近づいてきた。岩泉へ向かう、きょうの最初の列車である。
 1両だけのディーゼルカーは、それでもエンジンの音を山間に響かせて、峠を上って来る。その景色を眺めながら、ぼくはきのう沢筋で見つけたヤマブドウの味を思い出していた。

   
   
 暗く湿った景色の中に、キハ52型のヘッドライトが光る。  岩手和井内

 岩泉線は、山田線の茂市から押角峠を越え、岩泉を経て、海岸沿いの小本までを結ぶ計画で建設がすすめられた。1942年に茂市―岩手和井内間が開通、その後1957年までに浅内までが「小本線」として開通、、そして岩泉までが1972年に開通し、線名も「岩泉線」となったが、岩泉―小本間は建設されず、現在、岩泉町の委託を受けた岩泉運輸のマイクロバスが、この区間を結んでいる。
 この線は、国鉄分割民営化のときに、廃止されても不思議ではない閑散線区だったが、バスによる代替輸送ができないことから、いまだにJRが経営を続けている。途中の押角峠を、列車はトンネルで抜けているが、国道340号はカーブの続く狭い山道で、冬は積雪と凍結で危険である。そして国道が改修されてトンネルができる展望は今のところない。だから、岩泉線の未来は、とりあえずは保証(?)されている。
 岩泉までの列車は1日3往復しかなく、乗客ももちろん少ないこのローカル線は、だが、いまや鉄道ファンの大きな注目を集めている。それは、昔の国鉄時代の塗色に戻されたキハ52型が、岩泉線にも運用されるからである。
 また、岩泉にある大きな鍾乳洞・龍泉洞近くのホテルとタイアップして、岩泉線に乗っていくツアーを実施、1両だけのディーゼルカーが乗客でいっぱいになることもあるとか。2004年の夏に岩泉線の撮影に行ったら、駅に、大きな岩泉線のポスターが貼られていた。いわく、「悠久の時を刻む岩泉線」。ウーン、なかなかの言葉である。


 国鉄色のキハ52型は、岩泉線のシンボルだ。 2003.8.8 岩手大川―浅内 



 
駅からさらに山奥へ、マイクロバスが待っている。 2003.7.5  岩手大川

 
イワナの潜む渓を渡る。 2003.8.8. 押角―岩手大川

 三陸鉄道  がんばる第三セクター
  
  
 三陸鉄道の名所、堀内のコンクリートアーチ橋を渡る。 2003.  北リアス線 

 仙台から八戸まで、陸前、陸中、陸奥の太平洋岸を鉄道で結ぶ計画は、完成まであとわずかのところで、国鉄の分割民営化という障害にぶつかってしまった。そこで、未開通区間を抱える岩手県が中心となって、第三セクターの会社「三陸鉄道」を設立、1984年に、晴れて「三陸縦貫鉄道」が全通した。
 この三陸鉄道は、JRの線区に挟まれ、しかも二つに分かれている。大船渡線の盛と釜石線釜石を結ぶ「南リアス線」、そして山田線宮古と八戸線久慈を結ぶ「北リアス線」である。国鉄分割民営化のときの「国鉄再建法」によるローカル線の切捨てが機械的に行われたために、本来は一元経営すべき路線が、別の会社にされてしまったのだ。
 それでも三陸鉄道は、開業後数年間は黒字経営を続け、このことが、全国各地で切り捨てられる国鉄ローカル線を第三セクターで存続させる動きを加速させた。だが、この三陸鉄道も1994年以降は赤字となり、厳しい経営状況が続いている。しかし、お座敷車両やレトロ車両を造ったり、様々な割引を宣伝するなど、奮闘を続けている。
 三陸鉄道の乗客の落ち込みの大きな原因を、ぼくは聞いてびっくりした。それは、以前宮古駅のすぐ近くにあった県立病院が、国道45号線を北へ4kmほど上った山の中腹に移転したためだと言うのだ。それまで、宮古市よりも北の地域から病院に通うために三陸鉄道を利用していた人たちが、車やバスの利用に代わった。小さな鉄道会社にとって、公共施設の場所が直接、経営に影響を与えるのだと、改めて実感した。
 鉄道は、鉄道だけで存在しているのではない。鉄道は、地域の人々とのつながりの中にある。だから、行政には、分野ごとの「たて割り」ではなく、鉄道などの公共交通機関を組み込んだ、トータルな地域像を描いてほしいのである。


 三陸海岸は、ヤマセ(北東風)によって霧の日が多い。体験乗車のツアー客を乗せたこの列車も、霧に包まれた景色にため息をついていた。  2003.8.7.   堀内
 
  
夏、緑の中を列車が走る。 2003.8.7. 陸中宇部―久慈  

 三陸鉄道北リアス線は、旧・国鉄宮古線宮古―田老間と、同じく久慈線久慈―普代間、そして未開通だった田老―普代間を合わせた71km。列車は各駅停車で、1時間半ほどで走る。さぞ海の景色がいいだろうと思われるが、新線区間は長いトンネルが多く、景色が一番いいのは、旧・久慈線の普代から陸中宇部のあたりまでだ。この区間では、観光バスのツアー客を列車に「体験乗車」してもらう企画も行われている。バスツアーで鉄道、という、一見ミスマッチな組み合わせが、今、旅行会社によって企画され、広がっている。鉄道それ自体が観光資源になるのだ。
 ぼくも一度、堀内で写真を撮ってから宮古行きに乗ったら、異様に混んでいるのでびっくりした。席はほとんどふさがっていて、運転室の横のかぶりつきも、旅行客が占領している。ツアコンの女性がいたので聞いてみると、近畿日本ツーリストの、東京からの2泊3日の三陸海岸の旅とのこと。30人ほどの団体で、2つ先の普代のホームに、バスガイドが迎えに出ていた。
 列車の運転士氏に、「こういうツアーって、よくあるんですか?」と声をかけたら、「はい、ですが、景色の一番いいところだけで、乗車区間が短いので、収入としてはあまり多くないんですよ」との答えが返ってきた。それでも、列車にたくさんの客が乗っているのを見ると、ぼくはうれしくなってしまう。特に、経営の厳しい私鉄や第三セクターの路線では、なおさらだ。座れないのもまた楽し、である。
 

    
 「シーサイドライン」を想像させる三陸鉄道だが、海が見える区間は意外に少ない。普代の村を走る2両編成。 2003.3. 北リアス線 普代―白井海岸

 
  釜石を発車した南リアス線盛行きが甲子川を渡る。  2003.8.9. 平田―釜石

 北リアス線が、海岸段丘がつづく北部陸中海岸を走るのに対して、JR山田線を挟んだ南リアス線は、本来のおだやかなリアス式海岸の入江を見て走る。「リアス式海岸」とは、ノルウェーのリアスという所が本家の、地殻運動で海岸の山が沈んでできた、入江の多い海岸。三陸海岸は、宮古から南がこの沈降海岸で、北リアス線の走る北部は、海岸段丘の発達した隆起海岸なのである。
 三陸鉄道では、夏のシーズンに、「三陸縦貫鉄道」のシンボル的な列車として、仙台―八戸間を直通する「リアスシーライナー」を運転している。走行距離400km、所要時間10時間のロングラン。車両は、三陸鉄道36型の、リクライニングシートを装備したバージョンアップ2両編成。この列車をめあてに来て、全行程を乗り通す客が多いとか。JR線内は「青春18きっぷ」を使えるが、三陸鉄道は別会社。そこで三陸鉄道では、「青春18きっぷ」と連動した格安のフリー乗車券を発行している。
 びっくりしたのは、この「リアスシーライナー」が、仙台―気仙沼間を、JRのキハ28、キハ40系ディーゼルカーと連結されて走ることだ。駆動システムが同じだからできるのだが、もともと三陸鉄道では、JRへの乗り入れや、JR車両との併結を前提に車両を造ったということである。
 定期列車でも、、JR山田線を介して、北リアス線と南リアス線を直通する列車が2往復ある。これは三陸鉄道の車両で、だから山田線で三陸鉄道の車両に乗り合わせることもある。また、逆にJRのキハ100系も南リアス線に乗り入れている。このような相互乗り入れは、見ているだけでもうれしい。もっともっとがんばってほしい三陸鉄道である。


  南線はリアス式海岸の入江を走る。  2003.8.3. 吉浜―唐丹
 
   きょうは海水浴。相互乗り入れのJRキハ100型から、たくさんの子どもたちが降りてきた。     2003.8.3.  唐丹

 帰り道は、レトロ気動車。子どもたちから歓声が上がった。 2003.8.3. 唐丹


  レトロ車は、運転席もレトロ調。客席はボックスシートで快適だ。 2003.8.3.  

 吉浜駅を発車した「リアスシーライナー」。始発は八戸。ここから大船渡・気仙沼線経由で、仙台まで直通する。夏の三陸鉄道の名物列車だ。 2003.8.3. 三陸―吉浜

 
  気仙沼で、JRのキハ40系と連結作業をする「リアスシーライナー」。
       2003.8.3. 
  
  開通まもなくの、国鉄久慈線時代。コンクリート枕木がまぶしかった。 1975.

 いわて銀河鉄道・青い森鉄道  東北新幹線八戸開業の陰で

 2002年12月1日、東北新幹線の盛岡―八戸間が延長開業した。このことは、全国のたくさんの人々が知っていると思う。だが、東北本線盛岡―八戸間がJRの経営から切り離されたことを知っている人は、ずっと少ないだろう。
 国鉄分割民営化のあと、整備新幹線の建設をすすめたい国会議員や関係者たちは、JR各社との間で、今後の新幹線建設の際には、並行する在来線をJRの経営から切り離すことを了承してしまっている。新幹線で収入を得ながら、赤字が予想される在来線は切り捨ててしまうというJRの姿勢と、将来的な交通体系のことなど考えていない政治家たちが、そう合意したのである。
 すでに、1997年の長野新幹線開業に際して、信越本線の横川―軽井沢間が廃止され、軽井沢―篠ノ井間が第三セクターの「しなの鉄道」に移行している。そして次が、東北本線だったのである。話し始めると興奮して長くなるので、くわしくは拙著「駅前旅館に泊まるローカル線の旅」(ちくま文庫・2002)を読んでいただくとして、話をすすめる。
 そんなわけで、JR東日本の夜行列車もJR貨物のコンテナ列車も走っている盛岡―八戸間は、2002年12月1日から、「IGRいわて銀河鉄道」(盛岡―目時)と「青い森鉄道」(目時―八戸)として開業した。

 コブシとヤマザクラが告げる、いわて銀河鉄道の初めての春。
    2003.5.4. 奥中山高原―小繋

 この第三セクター化で、開業前にもっともあおりを受けたのはJR貨物。何しろ、通過する貨物列車に対する線路使用料が跳ね上がるからだ。これは、国が差額を負担することで決着をした。開業後にもっとも影響を受けたのは、いつも利用している地元の人たち。運賃が倍近くに跳ね上がったからだ。花輪線利用者はとんだとばっちりで、盛岡―好摩間が別会社、別料金になってしまったのだ。しかも、いわて銀河鉄道と花輪線の乗り換え時刻を、新幹線の車掌は放送しないのだ。そして、青春18きっぷを利用して鉄道旅行を楽しんでいる人たちも、この区間は別に運賃を払わなければならなくなった。まったくふざけた話である。JR東日本は、立派に株主配当も行う黒字会社なのだから、在来線もいっしょに経営すると宣言して企業イメージを上げることを考えなかったのだろうか。
 2003年の夏のある日、ぼくは、滞在している山田線区界駅前の区界旅館を朝6時30分に出て、盛岡から八戸、宮古を回って区界に戻る鉄道旅行をしたのだが、そのとき、盛岡での乗り換えに危なく遅れそうになったので、よけいに腹が立っているのである。
 その日、区界を6時37分の山田線盛岡行きに乗り、盛岡着は7時22分。以前は行き止まりの1番線についていた山田線が、そこをいわて銀河鉄道に取られてしまったので、本線のホームのずいぶん上野寄りに到着した。ぼくの乗る八戸行きは7時30分発だから、十分間に合うはずである。
 ところが、いわて銀河鉄道の乗り場は、以前の山田線のホームで、しかも一度改札口を出なければならない。ちょっとウロウロしてJRの改札口を出て、まだ食べていない朝食のパンをキオスクで買おうとしてウロウロし、キオスクのレジで3人も待ち、やっといわて銀河鉄道の改札口を見つけたときには、もう7時29分になっていた。区界駅でスタンプを押してもらった青春18きっぷは使えないので、自動販売機の前で「八戸」をさがしたのだが、あわてていたせいか、見つからない。もう発車のアナウンスをしている。もしこの列車に遅れたら、きょうの行程は大幅に狂ってしまう。そこでぼくは、サイフを持ったまま、パンの入った袋を手に下げたまま、改札の駅員に、「中で買わして!」と悲痛な叫び声をあげた。すると駅員は「乗車証明書」を渡してくれたので、「すいません!」と言ってそれを握りしめ、列車の最後部に向かってさらに走ったのである。ぼくが乗るのを待っていたように、ワンマン列車のドアがチャイムとともに閉まり、八戸行きの2両編成の電車は、心なしか遅れて盛岡駅を発車したのだった。
 それにしても、である。8分の乗り換え時間にパンもおちおち買えないような乗り換えシステムは、もはや詐欺に近いのではないだろうか。ああ、疲れた。
 それでも、のんびりワクワクと運転席横で前方の展望を楽しみ、青い森鉄道との境界の目時駅も見て、撮影ポイントも確認して、列車は八戸駅に着いた。ところが、ここでもうひとつ、詐欺に近いできごとに遭遇した。八戸駅の改札口でぼくが盛岡駅の乗車証明書を見せたら、「はい、2960円です」と涼しげに言ったのは、何とJRの駅員だったのである。ぼくは頭が混乱してしまった。盛岡駅での苦労と、高い運賃は、いったい何のためだったのだろうか。
 今からでも遅くはない。JR東日本は、いわて銀河鉄道と青い森鉄道の株をすべて買い、もう一度東北本線を利用者に返してほしい。
 やっぱり話が長くなってしまった。すいません。
 ぼくは、東北本線の盛岡から北、奥中山を越える区間が大好きで、毎年、写真を撮ったりイワナを釣ったりするために(ここでは一度に両方できるのです)出かけていた。そして、行くたびに建設が進んでいる新幹線の工事現場を見て、腹立たしい思いに駆られていた。
 もちろん、いわて銀河鉄道、青い森鉄道は応援するけれど、やはりここは「東北本線」なのである。


 JRと同じ701系でもクロスシートがあるのでうれしい、いわて銀河鉄道の車内。このときは、御堂駅前に車を置いて、一戸まで往復してみた。 2003.5.4.

  
 一戸駅の待合室では、蒸気機関車時代の写真展をしていた。一戸には、1968年の電化開業まで、奥中山を越える補助機関車D51の機関区があった。 2003.5.4.

  
  コブシのかたわらを電車が駆け抜ける。 2003.5.4. 奥中山高原―小繋





 新幹線は、この地域に何をもたらしたのだろうか。
        2003.8.25. 金田一―目時



   風格を感じさせる好摩駅前の高田屋旅館。    


  東北本線時代。特急列車が新幹線に接続して奥中山を疾走していた。
                          200●.   御堂―奥中山



  岩手山をバックに、JR貨物の新鋭機関車EH500が疾走する。 2002.11.3. 好摩―岩手川口


 ここは、ぼくにとって最高のイワナ釣り場でもある。  御堂―奥中山


 稲刈りの頃。   好摩―岩手川口  2001.9.30.


 好摩駅前の、開業100年の記念碑。まさかここが第三セクター鉄道になるとは思いもよらなかっただろう。


 工事中の沼宮内駅。ぼくは恨めしい眼で眺めていた。


 かつて、上野―青森間を結ぶ特急列車として、「はつかり」は東北本線の代表列車だった。東北新幹線の盛岡開業後は、盛岡―青森間にその姿を見ることができたが、新幹線八戸開業で、その名前も消えた。  ●   好摩―岩手川口



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