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森と湖とタブレット      北上線
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    北上発富山操車場行き地域間急行貨物列車「きたかみ」号
        DD51重連   1975.8.1.     岩手湯田―黒沢


 初めての春
 北上線は、東北本線北上と、奥羽本線横手を結ぶ、61.1kmの連絡支線である。
 いま新幹線が停まる北上駅が「黒沢尻」と呼ばれていたころ、この線区は「横黒(おうこく)線」と呼ばれていた。1954年、町村合併によって「北上市」が誕生、駅も「北上」と改称されたが、線区の名前が「北上線」となったのは1966年のことである。まだ蒸気機関車D60が活躍していた。
 1967年、急勾配にトンネル、そして貨物輸送量の多かった北上線に、新鋭ディーゼル機関車DD51が投入された。まだ東北本線盛岡以北に蒸気機関車が疾駆していたときに、すでに無煙化が達成されていたわけである。だから、多くの鉄道ファンにとって、「横黒線のD60」は、ほとんど伝説の世界と言える。
 ぼくが東北へ撮影に行き始めたのは1969年。花輪線や羽越本線、陸羽東線などの蒸気機関車を限られた日程の中で追いかけていたので、まだ北上線に足を踏み入れることはなかった。
 初めて北上線を訪れたのは、1972年3月の、秋田大学受験の帰り道。横手に1泊して、朝の北上行きに乗った。急ぐ旅ではなく、どこか景色のよいところで降りて、写真を撮ろうと思ってのことだ。5万分の1地形図を手に、いつものように運転席の後ろに立つ。
 列車は、山里の景色の中を、ゆっくりと上って行く。秋田県側の最後の駅、黒沢から、峠を越えて岩手県側に入ると、とたんに景色が大きく、広くなった。
 陸中川尻(現・ほっとゆだ)を過ぎると、地形図と目の前の景色の違いに気がついた。どうもおかしい。そのうちに、列車は地図にない大きな鉄橋を渡る。
 「ダムだ!」
 ぼくがそのとき持っていた地形図は、10年以上前に作られた白黒のもの。新しく作られたダムのために、線路が移設されていたのだ。
 広く明るい景色に心を奪われたぼくは、次の陸中大石(現・ゆだ錦秋湖)で列車を降り、人造湖が見えるところまで歩いて行った。
 斑に残る残雪が、早春の陽射しに輝いていた。頬に当たる風を心地よく感じながら、ぼくは列車を待った。少しして、DD51の重連回送列車が、軽いジョイント音とともにやってきた。

                1972.3.25.  陸中大石―陸中川尻

 陸中大石の駅前には、ダム建設によって移設されたらしい家々が、新しい集落を作っていた。人家や田畑を水没させて作られたダム湖にも、こんな明るい景色があるということを、ぼくはこのとき初めて知った。
 北上線には、DD51重連の貨物列車と、仙台―秋田間を結ぶ特急「あおば」、急行「きたかみ」、そしてキハ22(キハユニ26を含む)で統一された普通列車が走っていた。さらに、幹線系線区として列車本数が多いこの北上線が、信号機は色灯式になっているものの、タブレット閉塞であることも、大きな魅力に思えた。
 北上線は、秋田市から十分日帰りができる。これから始まる大学生活の楽しみを、また一つ見つけたような気がして、ぼくは大きく胸をふくらませた。

 
     「あおば」と交換するために陸中大石に運転停車する702D「きたかみ1号」                1972.3.25.

                
              1972.3.25.    和賀仙人―陸中大石  
 
  冬の残像

 
   秋田・岩手県境を除雪するモーターカーロータリー 
       1974.12.27.   岩手湯田―黒沢


北上線は、秋田・岩手県境で、奥羽山脈を越える。ひとつ北側の田沢湖線のような長いトンネルがあるわけではなく、なだらかな鞍部を乗り越えるのだが、峠の両側には最急千分の20の勾配が続いている。東北地方の太平洋側と日本海側を結ぶ、最も重要な線区として位置づけられ、貨物量が多い北上線には、当時、秋田機関区と釜石機関区のDD51が
、重連で運用されていた。
 蒸気機関車の重連運転には、2台の機関車に4人の乗務員が必要だが、北上線のDD51は、重連総括制御(前の機関車の運転席で、後ろの機関車も同時に動かせる)によって、タブレット受け渡しのための機関助士を含めて、2人の乗務員で2台の機関車を運転していた。
 北上線の沿線は、東北地方でも有数の、雪の多い地域である。1974年1月の豪雪のときは、9日間も不通になったほどで、北上線の積雪期の撮影行には、決意と装備と天候という条件が必要だった。
 1972年から73年にかけての、秋田での最初の冬は、C11が走る阿仁合線に通っていたので、北上線へは、春休みの3月27日に、やっと足を踏み入れた。雪は前年よりも多く、曇りでときどき小雪が舞う天候。陸中大石から陸中川尻まで、まだ冬景色の国道に沿って歩いた。
 ぼくは高校時代、ワンダーフォーゲル同好会に属していたので、少しの山の知識は持っていた。足回りは登山靴に、スパッツ。そして、道路以外のところで必要な、カンジキ。固形アルコールで湯をわかし、コーヒーや紅茶で体を温める。ぼくの撮影行は、日帰りの山行のようなものだった。
 

  陸中大石を通過する下り特急「あおば」  1973.3.27.   
 
 当時、北上線には、秋田と仙台を結ぶ、キハ181系による特急「あおば」が運転されていた。これは、上野―秋田間の特急「つばさ」の車両の空き時間を使ったもので、北上線内では、タブレットの受け渡しを見ることができた。このとき、東北地方で特急列車がタブレットの受け渡しをするのは、ここ北上線だけ。しかも、陸中大石では、午前中に、上り急行「きたかみ1号」が運転停車をして、下り「あおば」の通過を待つというシーンが展開された。
 「あおば」は、1975年11月の奥羽南線電化によって、「つばさ」が電車化されたときに消滅した。
 199 年、田沢湖線が秋田新幹線開業に向けた改軌工事のために、約1年間運休し、東北新幹線から秋田方面への連絡のために、北上から北上線経由で秋田を結ぶ、特急「秋田リレー号が運転された。すでに急行も走らなくなっている北上線に、期間限定とは言え、特急が走ることになったのだ。そのディーゼル特急の姿を見に、ぼくは久しぶりに、冬の北上線を訪れた。キハ110系の特急仕様のその車両は、性能的にはかつての「あおば」より優れているものの、秋田新幹線開業後は内装を変えてローカル線に転用することになっていることもあって、被写体としての風格は、やはり「あおば」には及ばなかった。

    
      待っていた702Dにタブレットを渡す  1973.3.27. 陸中大石

 
   DD51重連貨物が陸中大石を通過する    1973.3.27.

 
         1974.12.27.                  岩手湯田―黒沢
 1974年12月27日、ぼくは横手からのディーゼルカーを黒沢で降り、県境を越えた岩手湯田まで、線路に沿って、撮影をしながら歩き通した。
 峠を越えるこの区間、国道はずっと南側を通っている。途中まで線路に沿った林道はあるものの、今は雪に埋もれている。ぼくは、黒沢から少し歩いた林道の入口でカンジキを履き、雪原に足を踏み入れた。昨夜までの雪は、だいぶ落ち着き、風も弱まっている。もちろん、事前に天気予報を確かめての、雪の峠越えである。
 積雪は1メートルほどだが、雪が新しいので、カンジキでもだいぶ足をとられてしまう。こんなとき、一番歩きやすいのは、線路の中だ。列車ダイヤを確かめ、絶えず前後に注意しながら、線路の中を歩いた。撮影ポイントを決めると、カンジキで雪を踏み固めて、列車を待つ。この日、列車は、ほぼ定時で運転されていた。杉木立に積もった雪が印象的だった。
 昼飯は、峠近くの線路端でコーヒーを沸かした。この日は一日中カンジキを履いたままで、岩手湯田駅の待合室で、ようやく紐を解いた。


   雪の中を走る急行「きたかみ」   1974.12.27.  岩手湯田―黒沢

    
    雪の晴れ間に「あおば」がやって来た   1974.12.27.  岩手湯田―黒沢

 
     1974.12.27.  岩手湯田―黒沢

 雪景色を撮るときに気をつけなければいけないのは、自分の足跡を写さないようにすることだ。撮影するポイントを決めたら、そこまで行くためにどこを歩いたらいいかを、カメラアングルを考えて判断する。上の写真では、ぼくは写っている線路を、撮影ポイントまで、ずっと歩いてきた。カンジキの跡がが目立たないのは、ポイントを決めてからここまでの50メートル近くは、レールのすぐ横を、そっと歩いてきたからだ。
 こんなことに気を配るようになったのも、自分の足跡をみごとに写した失敗を、何度も重ねてからのことである。

 県境の峠を越える、単機けん引の上り貨物列車
     1976.3.5.    岩手湯田―黒沢

 
 線路のそばで撮影するときに大切なことは、通過する列車との安全距離を確実に取ること、そして乗務員に自分の存在と意思(自殺志願ではなく、写真撮影である)を知らせることだ。
 上の写真の撮影を撮るときには、ロータリーが削り取った雪の壁に、カンジキと三脚で凹みを作り、自分の体をはめ込んだ。そして、雪の壁の質感と、貨物列車の編成、勾配の変化(この場所がサミット)を写し取れる位置に三脚を据えた。
 列車を運転してくる機関士からは、もちろん、座り込んだぼくの姿の半分と、三脚、カメラが見える。機関士がぼくを視認するタイミングを計って、ぼくは右手を斜め上に上げる。保線作業員がする、待避完了の合図である。このとき、機関士が「ピィッ」と確認合図を鳴らしてくれることもある。もう、体を動かしてはいけない。
 上の写真は200ミリレンズで撮っているので、シャッターを押してから列車が通過するまでに、少し余裕がある。(列車速度も遅いので。)機関士に向かって、もう一度手を上げて、あいさつをする。運転席で、白い手袋があいさつを返してくれる。あとは、列車の通過する音と振動を味わいながら、成功の余韻にひたるのだ。
 1970年ごろの蒸気機関車ブームのときに、写真を撮りに来て列車に轢かれた死亡事故が何件か起きている。危険を感じた列車の運転士が非常ブレーキをかけた話は、あちこちで聞いた。今でも、復活運転の蒸気機関車の乗務員は、大変な気をつかっている。
 鉄道あっての、ぼくたちの趣味なのだから、列車の安全と自分の安全には、十分注意しなければ、と思っている。
  
                    1975.3.5. 小松川―平石

 春の湖畔


                     1974.4.28.  陸中大石―陸中川尻  

 北上線の一番の撮影ポイントは、何と言っても、湯田ダム湖(錦秋湖)を渡る第4和賀川橋梁だ。コンクリート橋とトラス橋を併せた長い橋は、両端にゆるいカーブを描き、山の上から俯瞰すると、すばらしいパノラマが展開された。
 ふだんはトラスの部分までしか水がなく、コンクリート橋は草原の上に架かっているのだが、雪解け水を集める春は、谷いっぱいに水面が広がる。


                     1974.4.28. 陸中大石―陸中川尻

  
       キハユニ26と、5両のキハ22で編成された普通列車
                 1974.4.28.  陸中大石―陸中川尻

 北上線の普通列車は、キハ22とキハユニ26で統一されていたので、編成がとてもきれいだった。
 キハ22は、寒冷地用のディーゼルカーで、外気が客室に入るのを防ぐため、客車や急行用ディーゼルカーと同じようにデッキがあり、窓は二重窓になっていた。キハユニ26は、キハ20系列の郵便・荷物合造車で、半分は客室。ドアとの間に仕切りがないので、キハ22よりも寒かったが、半室の小ぢんまりとした雰囲気が好きで、ぼくはよくこれを選んで乗っていた。どちらも、今は現役を引退している。
 当時、ディーゼルカーの塗色は、クリームと赤のツートーン・カラー。急行形の車両は、塗り分けが逆で、特急方は赤が少し濃かった。この塗色はすっきりとしていて四季の風景の中に溶け込み、また、モノクロームでもカラーでも、写真写りがよかった。ぼくが秋田を離れてまもなく、普通列車用のディーゼルカーの塗色が、くすんだ赤一色(ぼくは「赤ハゲ色」と呼んだ)に塗り替えられ、それを見たぼくは、いっぺんに、ローカル線での撮影意欲を喪失してしまった。国鉄分割民営化後、塗色はJRの支社や線区ごとに新しくなったが、ぼくは、かつての塗色のほうが、ずっと好きだった。
 今、北上線を走っているキハ100型は、性能的には申し分ないのだが、モス・グリーンとグレー基調の塗色があまりに地味で、ヘッドライトの光がなければ景色の中に埋もれてしまう。
 2000年秋から、盛岡所属のキハ52とキハ58の一部が、もとのツートーン・カラー(これを鉄道ファンは「国鉄色」と言っている)に塗り替えられた。これはファンサービスなのだが、20数年を経て、いまだにこの塗色の人気が衰えていないことが確かめられ、ぼくは胸を躍らせて撮影に通っている。


   
                  1973.5.13.  陸中大石―陸中川尻
 錦秋湖を渡る列車の一番の撮影ポイントは、北岸の山の上からの大俯瞰。国道から杣道を探して登り、植林されたばかりのスギの横に三脚を立てて、広大な景色を楽しむことができた。だが、今では、木が大きくなり、杣道も深い森の中になってしまった。
 30年の年月は、鉄道の姿を変えたばかりでなく、周囲の景色も変えてしまう。北上線沿いには秋田自動車道(ぼくは使わないようにしている)が走っているが、新しい道路が撮影ポイントを生み出すこともあれば、もちろん景観を壊すこともある。一方、北上線に限らず、かつてよりも山の木が育ち、俯瞰ポイントが消滅しているケースも多い。樹木の成長は、自然環境の保全からはうれしいことだが、鉄道写真撮影には、功罪半ばといったところだ。

 
    
この撮影ポイントも、今は木が茂って、このように見通すことはできない。
                    1973.5.13. 陸中大石―陸中川尻

   夏の日に
 夏の撮影は、東北でも、暑さとの闘いだ。夏草の匂いでむせ返るような線路端は、立っているだけでも汗が流れ出てくる。新緑の頃は軽快に湖畔を駆け抜けていたディーゼルカーたちも、真夏の暑さの中では、エンジンの音が、オーバーヒートしそうな悲鳴に聞こえてしまう。
 ディーゼルカーに比べると、ディーゼル機関車のエンジンは、確実で力強い印象を受ける。重い貨物をしたがえて勾配を上って来る2両のDD51を見ていると、機能を重視した武骨な面構えと4基のエンジンの響きが、限りなくたくましく感じられた。

  
            1975.8.9.   陸中大石―陸中川尻 

 朱色をベースに、白線とグレーを配したDD51の塗色は、夏の深い緑の中で、鮮やかに映えていた。
 日本の蒸気機関車が終焉を迎えていたこのとき、ぼくは北海道に最後の蒸気機関車を追うのではなく、東北の各地で働くディーゼル車や電気機関車、そして電車たちの姿を記録していた。
 1975年のこのとき、まだ、奥羽南線を走る特急「あけぼの」や急行「津軽」の先頭に、DD51の姿があった。だが、電化工事が進んで架線が張られた下を窮屈そうに走るDD51の姿を撮るよりも、ぼくは北上線や釜石線の、架線のない空の下を生き生きと走る彼らの姿を、追いかけていた。

 
  北上線のDD51は、運転席窓に、ツララ防御用のプロテクターと、雪の固着防止のための旋回窓を装備した「寒冷地仕様」。       1975.8.1.  陸中川尻


                1975.8.10.  陸中大石―陸中川尻
 
 1975年の夏、北上線に、客車による特急と急行が走った。奥羽南線の不通によって迂回運転となった「あけぼの」「つばさ51号」、そして「津軽」である。
 ぼくは、このときちょうど岩手県の早池峰山に登ろうと計画をしていたので、すでに大学を卒業して岩手県内の会社に勤めていた秋大鉄研の先輩・O氏と、8月9日の夜、陸中大石の駅で合流した。その夜は、駅員氏の好意で待合室に寝かせてもらうことになり、ぼくは待合室でクリームシチューを作ってO氏にごちそうした。
 翌朝、夜明けに駅を出て、いつもの俯瞰場所へ向かったのだが、あたりは一面の霧。列車が来るまでには晴れるだろうと思っていたが、9001列車(迂回の「あけぼの」)は、鉄橋を渡る音しか聞こえず、2人で顔を見合わせて、落胆の声を上げた。それでも、次の「津軽」のときには霧が何とか晴れて、寝台車を連結した夜行急行の編成を撮ることができた。
 ぼくはそのあと、O氏と別れて北上への列車に乗り、北上駅前から、早池峰の登山口・河原の坊まで、3時間のバス旅。さらに1時間近く歩いて、小田越えの無人の山小屋で泊まり、8月11日に早池峰山に登った。下山ルートは北麓の、山田線平津戸駅まで歩いたのだが、暑さの中の林道歩きが辛かった。
 
  
    14系客車の臨時特急「つばさ51号」は、秋田機関区の初期型、4号機が引いてきた。 1975.8.9. 陸中大石―陸中川尻

 夏の日の夕方、相野々駅に降り立った。この駅で、3本の列車のタブレット授受を撮るためだった。駅長氏に声をかけて、列車の接近まで待合室で時間をつぶした。
 最初にやって来るのは下り貨物列車。ここでのぼり「あおば」と交換するために停車する。通過列車はその駅までのタブレットを、ホームに設置されている、らせん状のタブレット受け器に引っ掛けて行くのだが、交換待ちの停車をする貨物列車は、駅長の腕にタブレットを掛ける。駅長は、受け取ったタブレットを確認し、すぐに、上り列車用のタブレット授器に取り付け、信号係が駅事務室の継電連動式の信号てこを操作して、上り場内信号と出発信号を「進行」の緑に変える。
  
   腕と腕。信頼にもとづいた、「技」の世界である。
          1975.8.1.  相野々
 駅長が、タブレット受器の傍らで、横手方を監視していると、まもなく、仙台行きの特急「あおば」が、カーブしたホームにスピードを落として進入してきた。乗務員室窓から半身を乗り出した運転助士が、タブレットをらせんに掛け、ホーム先端の授器から、黒沢までのタブレットをもぎ取る。
 
 
                             1975.8.1.  相野々
 「あおば」の通過を見送った駅長は、らせんの下から横手方のタブレットをはずして、上り貨物列車の機関士のもとへ小走りに駆ける。上り出発信号が緑色灯に変わり、機関士はブレーキのエアーを抜く。「シャー」という、胸の息を全部吐き出すような長い音が、せまる発車時刻を教えてくれる。そして、駅長の右手が上がると、DD51のホイッスルが山間に響いて、貨車の列が「ガシャガシャン」と動く。油煙とエンジンのうなり、そして貨車の軋みとともに、貨物列車はゆっくりと加速していった。

 次の通過列車は、上り貨物である。もう暗くなっているので、タブレット授器から運転助士がタブレットをもぎ取る瞬間を撮影することにした。三脚を据え、カメラを固定し、露出を決める。
 しばらくの、静寂のあと、ヘッドライトを光らせて、貨物列車がやって来た。機関士に手を上げて合図をしてから、レリーズを手に、ファインダーをのぞく。機関車がぼくの横を通り過ぎ、機関助士の右腕が授器の電灯に浮かび上がった瞬間に、ぼくはシャッターを押した。


                         
 1975.8.1.  相野々

 北上線での撮影には、一人で行くか、秋田大学鉄道研究会の仲間といっしょだった。そして、他の鉄道ファンとは、一度も出会ったことがなかった。一人のときには、何時間も、だれにも会わずに過ごすこともあった。
 夏の陽射しの下で、そして降りしきる雪の中で、ぼくは列車を待った。カーブの向こうに列車が見え、近づき、そして通過していく。たったそれだけのことだけれど、ぼくは、すばらしいドラマを見ているように思えた。
 列車を待つぼくがいて、ハンドルを握る乗務員がいて、乗客や、貨物を待つ荷主がいて……。ぼくと、たくさんの人たちが、鉄道を通してつながっている……。
 秋田大学時代の、北上線との4年間のつき合いは、ぼくに、鉄道ファンであることの幸せを味あわせてくれた。
  

             
                   1974.12.27. 岩手湯田―黒沢

         
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