マタギの里の C11 阿仁合線 |
案山子がいてヤギがいる、阿仁の山田をC11が走る。 ぼくが秋田大学に入学した1972年4月現在、秋田県内には、羽越本線のほかに、奥羽南線〔横手−秋田〕、矢島線、五能線、そして阿仁合線に、蒸気機関車が残っていた。 1972.6.13. 小渕 初めての阿仁合線は、小雨が降っていた。ぼくは、窓ガラスが3枚割れている小渕の待合室で、半日もブラブラしていた、と、このとき、メモ帳に書いている。この小渕の待合室で、ぼくは初めて『無人駅泊まり』を経験した。深夜になっても明かりが消えず、割れたガラスから入って来た大きな蛾に目を覚ましたことを覚えている。 それでも、朝は、やってきた。きのうも会った車掌氏が、ぼくを見て、「泊まったのか?」と声をかけてくれた。 1972.6.14. 小渕 翌朝は、雨もやんで、しだいに空が晴れてきた。一番列車が来る前から、田んぼに向かう人の姿があった。 朝一番の上り列車は、客車3両をC11が引く、通勤列車。すでにほとんどがディーゼルカーに替わっているローカル線でも、車両運用の関係で、機関車けん引の通勤通学列車を残していることが多かった。ここ阿仁合線でも、朝一番の上りと、下りの最終列車が、C11の仕事になっていた。 しっとりとぬれた景色の中、白い煙と白いドレンを吐いて、上り一番列車は、小渕の駅を発車した。 阿仁合線222列車 C11241〔弘〕 1972.6.14. 前田南−小渕 下りの一番列車に乗って、ぼくは、阿仁合の駅に降り立った。阿仁合線の中で一番大きな駅で、秋田県北秋田郡阿仁町の玄関口の駅だ。山里の小さな町の一日が、これから始まろうとしていた。 列車のない時間帯を、秋北バスが補っていた。 阿仁合の車庫で。 1972.6.14. 阿仁合 何て明るい顔だろう。比立内からの朝の上り列車から、たくさんの人たちが下りてきた。勤めに行く人、山仕事の人、買い物に行く人、そして高校生。ローカル線が、一番生き生きとした姿をみせてくれるのが、朝の列車の風景である。ぼくは、30年たった今でも、この写真がとても気に入っている。 キハ22の狭いドアから、たくさんの荷物を積み下ろす人。当時のローカル線には、行商の人たちがたくさん乗っていた。 阿仁合線は、1936年(昭和11年)に、阿仁合までが開通、阿仁合から比立内までの開通は、1963年である。ぼくが初めて訪れたときは、比立内までの開通から、まだ10年も経っていなかったことになる。 阿仁合から比立内までの区間は、阿仁川の河岸段丘の上を走る。建設年代が新しいので、阿仁合までの区間よりも、列車はスピードを出して走ることができる。ぼくは、風景の大きなこの区間がとても気に入ったのだが、列車本数が少なく、旅客列車のない昼間に走る貨物列車の写真を撮るためには、阿仁合から並行する国道(当時は曲がりくねった旧道だった)を走るバスを利用したり、ヒッチハイクをしたりする必要があった。 初めて訪れた6月も、ぼくは荒瀬から萱草まで、営林署のマイクロバスに乗せてもらった。このヒッチハイクのノウハウも秋大鉄研のO先輩に教えてもらった。いわく、「トラックや、作業用の車のほうが、乗用車よりも確率が高いぞ。」 これはまったくその通りで、ぼくはこのとき以後も、阿仁合線や、あちこちのローカル線沿線で、ありがたい思いをさせてもらった。ただ、幹線国道ではなく、たまに車がやって来る田舎の道のほうが、圧倒的に確率が高かった。後年、自分の車を持ってからは、ぼくはその『恩返し』のために、何度か田舎道で人を乗せている。 アンダートラスの阿仁川橋梁を渡る上り貨物列車 1972.6.14. 萱草−笑内 阿仁合から比立内までの区間のハイライトは、「萱草大アンダートラス」。阿仁合線が一度だけ阿仁川を渡る、その鉄橋である。今は新しい国道橋が、鉄橋の上流側、つまり、上の写真の手前側に並行しているが、当時は、写真の下に見える小さな橋が国道橋だったので、広いアングルで列車を撮ることができた。この写真は逆光で、あまりよいとは言えないが、材木を積んだ貨車の列が、往時の雰囲気をしのばせてくれる。 午後の列車が着いた 1972.6.14. 比立内 比立内駅の線路の横に、ヤギがつながれていた。 1972.6.14. 阿仁合線の終点・比立内のホームの前には、河岸段丘の上の広々とした田んぼの景色が広がっていた。構内には貨物ホームとチップ工場があり、ここが山の駅であることを教えてくれた。杭につながれたヤギが、人なつこい顔をして、ぼくにすり寄ってきた。汗ばんだぼくの体に、山からの風が心地よく感じられた。 このときの阿仁合線での2日間が、30年を経た今も、鮮烈な記憶として残っている。 秋の雨 小又川橋梁を渡る下り貨物列車。下り列車はC11が逆向きで引いていた。 1972.11.21. 阿仁前田−前田南 稲刈りの終わった田んぼに、冷たい雨が降っていた。川は水かさを増して、景色をさらに湿らせていた。傘を差して待つぼくの耳に、阿仁前田を発車するC11の、太い汽笛の音が響いてきた。山里を走る行き止まりのローカル線でも、貨物列車はしっかりと働いていた。 雨の朝、上り列車を待つ 1972.11.21. 合川 1972.11.21. 合川 1972.11.21. 合川 1972.11.21. 大野台−合川 雪の日に 阿仁前田 1973.2.14. 子どものころから雪国へのあこがれを持っていたぼくは、秋田の冬の訪れを心待ちにしていた。 1972年11月15日、教室で講義を受けていたとき、突然、窓の外に雪が舞った。初雪だった。いよいよやって来る初めての秋田の冬を目の前にして、ぼくは、胸の高鳴りを覚えた。 この年の冬は雪が少なかったが、それでも、白く雪化粧した田んぼや、白い雪の上の2条のレール、そして、雪の中を走る列車の姿は、ぼくを感動させるのには十分だった。 阿仁合線は、翌年(1973年)の春に、無煙化が予定されていた。最後の冬のC11の姿を撮るために、ぼくは何度も阿仁合線に出かけて行った。 阿仁合線の撮影は、6月の一度を除いて、秋田からの日帰りだった。夜明け前に寮を出て、秋田駅から奥羽本線の下り一番列車か、そのあとの急行「津軽1号」に乗り、鷹ノ巣へ。秋田にもどるのは、夜遅くになる。ED75の引く旧型客車に揺られての、小さな楽しい旅を、ぼくは続けていた。 朝の上り貨物列車 C11241〔弘〕 1973.2. 大野台−合川 阿仁合線には、弘前機関区所属のC11が3両で運用されていた。143、241、243の機関車たちだった。 C11は、距離の短いローカル線用のタンク機関車で、終点に転車台のない線区では、片道はバック運転を行っていた。阿仁合線でも、下り列車は逆向き運転、上り列車は前向きで運転されていた。前から写真を撮るには、やはり前向きのほうがよいのだが、上り列車はほとんどが下り勾配なので、力行シーンを撮れる場所は少ない。そのなかで、合川から大野台へは、台地を越えるために上り勾配が続き、ここで朝の上り貨物列車を撮影することが多かった。 冬、雪国の機関車は、スノープラウをつける。小さなC11も、どっしりと落ち着いて見えた。 萱草の鉄橋を渡る下り貨物列車 1973.2.4. 萱草−笑内 雪の中、上り貨物列車が合川を発車した。 1973.2.14. 大野台−合川 夜、機関車の蒸気の音が、真っ暗な空に吸い込まれていく。 1973.2.4. 合川 1973.2.14. 合川 阿仁合線に使われていたディーゼルカーは、普通列車用の、キハ17系(キハ10,11,17)と、キハ22型。たまにキハ20も見た。 キハ17系は、1953年から作られた、ディーゼルカーとしては当時一番古いタイプ。上の写真(手前の車両)でわかるように、窓が2段になっていて、上段の窓は固定式の「明かりとり」。鉄道ファンの間では、「バス窓」と呼ばれていた。また、車体がキハ22(うしろの車両)などと比べて一回り細く、座席もビニール張りで肘掛もないという素朴さだった。キハ22は、寒冷地の非電化間用に1958年から作られ、北海道と東北地方北部で活躍していた。出入り口のドアと客室はデッキで分けられ、暖房もよく効き、座席もゆったりしていたので、両方が連結されているときは、ぼくはもっぱらキハ22を選んでいた。 でも、キハ17系は、運転席との間が締め切られていなかったので、かぶりつきをするには都合がよく、運転士氏とおしゃべりをしながら、前方の景色を楽しむこともよくあった。キハ17も22も、すでに国鉄(JR)のレールの上から姿を消している。 1973.2.14. 合川 鉄道は人々の暮らしを支えていた。多くの人々は、鉄道を、駅を、暮らしの中に入れていた。雪国のローカル線は、その、あたりまえのことを、情景として、ぼくに伝えてくれた。 1973.3.22. 大野台−合川 1973.3.22. 阿仁合 1973.3.22. 阿仁合 1973年4月、阿仁合線にDE10型ディーゼル機関車が入線、3両のC11は、ひっそりと姿を消した。 ところが、この物語には続きがあった。 秋空の下で 比立内 1973.11.3. 1973.11.3. 前田南−小渕 1973年4月に阿仁合線の運用に入ったDE10は、冬は除雪用に使われるDD14、DD15が、春になって入換作業に充当されたために「余ったDE10」だった。その年の秋になっても、弘前機関区に、新しいDE10の配置がなかったため、除雪作業に向けてDD14、DD15が工場に入った1973年10月半ばから、阿仁合線に再びC11が復活したのである。 しかし、そのC11は、半年前までの3両ではなく、米沢機関区から配転されて来た、240,359,372の3両だった。ぼくは、不思議な違和感を覚えたのだが、この3両は、変わらない阿仁の景色の中、残された半年間を精一杯走り続け、1974年3月、雪解けとともにその姿を永遠に消したのだった。 萱草−笑内 1973.10.30. 笑内−岩野目 1973.11.3. 荒瀬−萱草 1973.11.3. C11貨物列車同士の交換 米内沢 1973.10.30. 阿仁合線は、奥羽本線鷹ノ巣と田沢湖線角館を結ぶ、秋田県内陸部の連絡支線として建設が進められた。鷹ノ巣から比立内までは阿仁合線として、そして、角館から西木村の松葉までは角館線として開業していたが、未開通区間の工事の途中で、国鉄分割民営化による「JRが経営を引き継がない線区」に指定されてしまった。さては廃止かと悲観したのだが、地元の熱意によって、1986年に、第三セクターの「秋田内陸縦貫鉄道」として再出発を果たし、1988年、鷹ノ巣−角館館が全通した。 しかし、過疎化と少子化が激しい地域ということもあって、経営はとても厳しく、将来の展望は予断を許さない。何とか秋田内陸縦貫鉄道にがんばってもらいたい。 鉄道が大事にされない国・日本の、東北の山の中で、今も小さな鉄道が生きている。その姿を、日を改めて紹介したいと思っている。 1973.4.5. 阿仁合 |