2006.1 北陸の旅報告
 「はくたか」は長岡で待っていた
 冬休みの1月6日から9日まで、北陸三県の地方鉄道の視察のために、豪雪の北陸に旅した。
 JR東日本の「北陸フリーきっぷ」という格安切符を購入し、越後湯沢で上越新幹線から北陸行きの特急に乗り換えるというルートだったので、行き帰りの列車がとても心配だったのだが、現地での受け入れ態勢をとってもらっていたので、覚悟して出発した。
 6日午後、上越線(在来線)は水上―宮内(長岡)間が不通のまま。新幹線ができて以来、JRは上越線の除雪の手を抜いているとしか思えない。したがって、ぼくの乗った「とき329号」は越後湯沢での金沢行き特急「はくたか16号」への接続はできず、長岡まで新幹線にそのまま乗って、長岡で待っていた「はくたか」(16号。指定券の客は、だからそのまま指定席に座れた。なるほど、そういうことか。)に乗り換えた。車掌に聞くと、このところほとんど長岡接続だと言う。越後湯沢接続に比べて20分ほどの遅れになるという。実際は先行列車の関係もあって富山到着で40分ほどの遅れだったが、とりあえず現地入りすることができてホッとした。

長岡駅で律儀に待っていた「はくたか16号。きょうは通らない北越急行の車両だった。
長岡で思いがけずに出会ったDD14ロータリー。ご苦労様。

  雪下ろしより神頼み?
 宿泊はアパホテル富山駅前。駅前といっても北口だが、富山駅構内に隣接しているので、部屋から列車が見えるかと期待したのだが、ぼくの部屋は反対側だったので、残念。
 ホテルの部屋でテレビを見ていたら、「JR西日本金沢支社の社員たちが無事故祈願の駅伝をした」というニュースが報道されていた。金沢から、白山市の神社まで、無事故祈願のタスキをリレーして、最後は神社に「尼崎事故」と「羽越線事故」(これは東日本管内だが)の犠牲者の追悼と今年の無事故を参加者数十人が全員で祈願したというもの。ぼくはあきれてしまった。
 犠牲者の追悼や無事故を祈願すること自体は、もちろん悪いことではない。しかし、今はそれを数十人の参加者で仰々しく行う時期なのか。このとき、鉄道の現場は豪雪との闘いが続いていた。同じ白山市では、雪で民家が倒壊し、2人が亡くなる事故が起きている。これだけの参加者を集められるなら、雪下ろしボランティアをしたほうが喜ばれるし、マスコミにも好意的に取り上げられるのではないか。
 次第に憤りまで覚えてしまった富山の夜だったのである。

 富山地鉄市内線、朝8時過ぎに動き出す
 翌7日(土)は、午前10時に全国鉄道利用者会議の清水孝彰さんと富山駅で待ち合わせて富山港線を見る予定。もっとも、清水さんは青春18きっぷを利用して大糸線経由で来るので、大糸線が不通だと、予定は大幅に狂う。ともあれ、「早起きは3本の得」という鉄道写真の原則に従って、朝7時まえにホテルを出発、駅のコインロッカーに大きな荷物を入れて駅前へ。
 富山地鉄市内線の乗車と撮影を楽しもうと思ったら、何と、レールが雪に埋まったまま。足で掘ると、15cmほどの雪である。これではだめだ。地鉄の鉄道線の駅に行くと、何とか動き出しているものの、ダイヤは大幅に乱れている。それでも不二越・上滝線の岩峅寺行きが間もなく発車するというので、市内線が接続する南富山まで乗ることにした。
 南富山は、市内線の車庫と鉄道線の駅が同じ構内にある。駅員氏に聞くと、まもなく市内線が動きますとのことで、待合室で少し待って、7016号に乗車。運転士は女性。8時20分に発車したが、途中でしきりに無線が緊迫した交信。どうも、こちらへ向かっている電車が途中で動けなくなっているらしい。司令室から脱出方法を指示しているが、どうもだめそう。そのうちにその現場を通ったので、次の電停で降りて、様子を見に行くことにした。
 グレーダーも出て、何とか電車は脱出。ぼくはそのまま富山駅前まで歩いた。夜明け前に富山市あたりにまとまった雪が急に降ったとのこと。


 富山駅前電停。これでは電車は来ません。
   2006.1.7
  
 地鉄電車も雪ダルマ。 電鉄富山

 いちばん向こうの電車が立ち往生しています。
                桜橋―荒町

 北陸本線にはDE15複線型ラッセルも出動していました。 東富山にて。
 
 お客さんは降りて歩いていきました。運転士さんがスコップで雪をどかします。

 道路用除雪車が応援に来ました。これで無事に脱出。ああ、よかった。

 JRからLRTへ
 富山駅前から清水さんに電話すると、大糸線は動いていて、いま北陸本線の上り列車の中だと言う。それにしても、ローカル線である大糸線がちゃんと動いているとはびっくりしたが、北陸によく通っている清水さんは、「大糸線は意外に大丈夫なんですよ」と笑っていた。
 清水さんとホームで合流して、まず富山港線へ。朝は475系オリジナル塗装車が運用に入っていたのだが、ぼくたちの乗るスジからはキハ120型単行になってしまい、ちょっと残念。
 富山駅から北へ伸びているJR西日本の短い路線、富山港線は、この2月いっぱいで運転を止めることになっている。(もう終了しました。)だが、廃止されるのではない。将来の北陸新幹線開業に向けて富山駅が高架化されることになり、富山駅に乗り入れている富山港線は、第三セクター会社「富山ライトレール」として「LRT」(ライトレール・トランジット。路面電車
と高速電車の機能を併せ持った新しいタイプの鉄道)化されるのだ。
 終点の岩瀬浜まで乗り、帰りは富山の一つ手前の富山口で降りて、路面の工事が進んでいる様子を見に行った。すでに富山駅北口付近では、新たに道路の真ん中にレールを敷く工事が進められている。都電を始めとする路面電車の廃止に悔しい思いをし続けてきたぼくは、新しく敷かれたレールを見て歓声を上げてしまった。


 なつかしい色、大きな目玉の475系。乗れなかったけれど、写真を撮れたので、ちょっと満足。
 終点の岩瀬浜駅。キハ120型の単行。もう見ることのない風景です。
 
 単線のレールを敷く工事が進んでいる。
 
  
   ここが富山駅北口の駅(停留所?)です。

 万葉線は とっても元気
  清水さんと富山港線を見たあと、駅ビルの「白えび屋」で「白えび天丼」(おいしかった)を食べ、高岡へ向かった。乗った普通列車は、寝台特急電車583系を改造した419系。広いボックスシートと、不自然な(?)車内のつくりを懐かしんだ。
 富山県西部の高岡市では、赤字と乗客減で廃止論が浮上した加越能鉄道高岡市内線(万葉線)に対して、市民と市当局が協力して新たな街づくりの核と位置づけ、新たに第三セクターの「万葉線株式会社」を設立、四年前に再スタートを切った。その後、乗客の増加傾向が続いている。

 万葉線の一日フリーきっぷで、まず終点の越ノ潟まで。まるで都電の8000型(若い人は知らないよね)の万葉線7000型電車(富山地鉄市内線の電車と同じ)の揺れを楽しむ。新型車「アイトラム」は雪のためか車庫でお休み中。
折り返して途中の中伏木までもどり、小矢部川を渡る「如意の渡し」の船着場へ。対岸にはJR氷見線が走っているので、そっちも乗ろうと考えた。
 渡し船の時刻表がないので不思議に思っていたら、対岸から小さな船(というよりエンジン付きボート)がやってきた。ぼくたちを見つけて迎えに来たらしい。10人くらいでいっぱいになりそうな渡し船は、高岡市が委託していて、万葉線のフリーきっぷで乗れる。つまり、ぼくたちは、ただ。その、ただの客に、船頭さんは実に親切だった。

 単線区間が多い万葉線の列車交換。

 583時代の雰囲気を残す419系の車内。

 船が来ないかなと思っていたら、船が来た。その名の通りの「如意」の渡し。

 車庫で寝ていたアイトラム(右の赤い2両)。

 伏木で専用線の入替に励んでいた小型DL。氷見線のホームから。

 信号所(?)で交換する電車。 坂下町―本丸会館前。積まれた雪の山に「お立ち台」ができていた。「鉄」の考えることは同じ。
 高岡駅前にもどり、地下商店街のお店で、市民団体RACDA高岡(路面電車と都市の未来を考える会・高岡)の島正範会長にお会いした。万葉線再生の立役者となった方で、様々な取り組みで着実に利用者を増やしていることを聞いて、ぼくもだいぶ気合が入った訪問だった。
 清水さんとぼくは、このあと高岡駅前のビアレストラン経由で金沢へ。夕方からまた雪が降り出して、街はいい雰囲気。

 北陸鉄道の対照的な2路線、そしてLRTへの展望
 金沢市に鉄道2路線を持っている北陸鉄道だが、その姿は対照的だった。
 JR金沢駅前の、まだできたばかりの広い地下広場(?)に乗り入れている浅野川線には、京王井の頭線からやってきた2両編成の「新車」が、朝のラッシュ時は約20分間隔、他の時間帯は30分間隔で運転されている。終点内灘までの各駅も、きれいに整備されている。内灘駅前には、電車との乗り換え客を乗せるバスが接続している。
 一方の石川線は、金沢市の中心から少し離れた野町がターミナルで、あまりよい条件ではない。野町に着いた電車に接続してバスが出るのだが、このままでは鉄道廃止も考えられるのではないかと心配になる。車両はもと東急7000型で、駅などの施設は改修が必要な状況。この石川線、JR西金沢駅前にいったん乗り入れ、そこから金沢市内に向かうという、どうみても不利な線形である。
 同行の清水さんによると、現在、金沢市内にLRTを走らせようという構想が市民団体を中心に進められていて、石川線の野町から中心街の香林坊を通ってJR金沢駅、さらに西側の新開発エリアまでの路線が考えられているという。もちろん、実現できるかどうかはまだわからないが、このLRT路線は、ぼくの現地視察と地図上の確認の結果、実に有効な公共交通機関になると判断した。
 香林坊の大和屋デパートでお昼のそば(あとで気がついた。うどんのほうがきっとおいしかった。)を食べ、和菓子屋で買い物をしてから、県NPO支援センターで、「金沢LRTと暮らしを考える会」の谷内昭慶さんにお会いして、話をうかがった。こうした、街づくりの核に鉄道をすえようとしている人たちと会えるのは、本当にうれしい。ぜひとも、LRTを実現させたいものだ。

 地下ホームにびっくり。 日曜日の北鉄金沢駅
    
 北陸でがんばる「井の頭線」。 蚊爪(かのつめ)
    2006.1.8
 
 急カーブにポイントが加わる石川線新西金沢。
  
 
  河北潟と日本海を結ぶ大野川の鉄橋を渡る。
   浅野川線蚊爪―粟ヶ崎
   
 金沢市の中心街、香林坊。ここにLRTが走るのを
 見たい!
  
   北陸にはまだ国鉄色が健在でした。「雷鳥30号」
    2006.1.8  加賀温泉

  福井の黄昏には夜明けの歌が似合った
 1月8日午後、金沢をあとにして、いよいよ最後の目的地、福井へ。少しでも撮影の時間をとりたいぼくは、青春18きっぷの清水さんより先に、「北陸フリーきっぷ」でがら空きの「雷鳥30号」に乗り込んだ。国鉄色に大満足して加賀温泉で降り、途中で追い越した475系普通列車で福井入り。
 福井の駅は、いつの間にか高架になっていた。金沢もそうだったが、高架になると、駅からあたたかさが消えるような気がする。
 福井鉄道の「福井駅前」停留所へ、凍てついた道を歩く。まもなく第一線から退く予定の古い電車たちの写真を撮りたかった。なにしろ、福井では、路面を大きな鉄道車両が走っているのだ。5年前にも撮影に来ているのだが、そのときは武生の近くで朝の通学風景を撮っている。福井市内に来たのははもっとずっと前のことだ。
 福井鉄道は、昨年春に廃止された(まったくひどい、残念な廃止だった)名鉄岐阜市内線・美濃町線の低床車両を購入して、ホームの高さを下げるという大規模なリニューアルを進めている。これによって、これまで3段のタラップをバタンと出して乗り降りしている福井市内の路面区間の利用者サービスが大幅に向上する。いわば、これまでの地方鉄道がLRTに生まれ変わるようなものなのだ。現在、各駅で工事が進められていて、4月1日からは低床車両が主力となる。
 福井鉄道の旧型車は、セミクロスシートのレトロな雰囲気で、鉄道趣味的には好きなのだが、ここは新しい出発を喜ばなければ。それでも、4編成はラッシュ時用に残るので、不思議な光景はまだ見られるとのこと。旧型車は、ホームがみんな低くなったので、今度は鉄道線内の駅でもステップを降ろすことになる。でも、ラッシュは通学の高校生がほとんどなので、足腰の鍛錬になるかも。
 福井駅前から、ステップを上がって乗車、路面区間を往復すると、もう夕暮れ時。駅前にもどって写真を撮っていると、清水孝彰さんと、「ふくい路面電車とまちづくりの会」の清水省吾さんがやってきた。

 停留所は少し駅よりに移動、敷石も新しくなっていた。
  2006.1.8  福井駅前
 
  
  乗り降りが大変なのです。ステップというより「はしご」の雰囲気。
 
 たそがれの街。とてもすてきな雰囲気でした。
 
    夜明けは近い、福井の黄昏です。

 アテンダントにびっくり  えちぜん鉄道
 「ふくい路面電車とまちづくりの会」(ROBAの会)の清水省吾さんとは、去年の秋に、全国鉄道利用者会議の定例会で初めてお会いした。福井のみならず、北陸、そして岐阜へも活動エリアを拡大している積極的な人である。そしてぼくよりだいぶ若い。清水孝彰さん(全国鉄道利用者会議代表)もそうだが、この分野の活動家には若手が多い。ちなみに、ぼくが所属する別分野(日本クマネットワーク)の研究者の人たちも、研究者であるとともに、クマと環境を守る活動家である。こうした、趣味のレベルを超えた活動を若い人たちが進めていることに、ぼくは日本の未来に少しの光を見出すのである。
 そんなことを考えながら、福井駅近くの食堂でぼくは両清水氏とビールを飲んでいた。と言っても、両清水氏はアルコールに弱いたちなので、飲んでいたのはもっぱらぼくなのである。
 さて、福井にはもうひとつ、見なければならない鉄道がある。えちぜん鉄道である。 
 福井県では、2度の正面衝突事故を起こして2001年6月に国土交通省から運行停止措置を受けた旧・京福電鉄の2路線を、新たに「えちぜん鉄道」として再生させた。
 この、京福電鉄からえちぜん鉄道への再生の過程で、全国の地方鉄道にとってのいくつもの貴重なデータと経験が得られた。
 年間300万人近くが利用していた県庁所在都市近郊の鉄道が突然運行を停止するという事態はこれまでなかった。鉄道の代わりに代替バスが運行したのだが、道路の渋滞によってダイヤは大幅に乱れ、高校生などに遅刻が続出、また、バスの利用者自体も、鉄道のときに比べて約半分に減ってしまった。自家用車に移行したり、出かけること自体を控えたりした結果である。
 福井県と沿線自治体では、この事態を重視、第三セクターで鉄道を再生させることにして、
2002年に「えちぜん鉄道」を設立、2003年には、廃止された永平寺線を除く全線で営業が再開された。会社の経営努力、自治体の協力、住民の力によって、2005年度の利用者数は京福電鉄時代を上回る見通しである。
 1月9日、夜明けとともに行動開始。JR福井駅東側のえちぜん鉄道福井駅へ。まず三国芦原線を途中まで乗り、写真を撮って福井口まで戻って、今度は勝山永平寺線を待つ。すると、小型のカートを引いてきた小柄の女性が「おはようございます」と駅員にあいさつしている。この人が、えちぜん鉄道の特色の一つ、「アテンダント」だ。ぼくも「おはようございます」とあいさつされたので、勤務時間や仕事の内容を尋ねる。朝のラッシュが終わったころから夕方のラッシュ前までの昼間の電車にはアテンダントが乗り込み、乗り換えや観光案内、乗降の手助けなどをする。
 休日の朝の下り電車とあって、セミクロスシートの単行電車はガラガラ。それでも、数人の乗客にマイクでていねいに案内をしている様は、ちょっと場違いな感じもしたが、乗客の評判はとてもよいという。京福時代はあまりサービスがよいとはいえなかったこともあるだろうが、人件費を使ってでもイメージアップと乗客増につなげようという会社の前向きな姿勢が感じられた。
  
 最初に乗ったセミクロスシートの三国芦原線電車。
    
  
 これは2ドアロングシート。休日なのに客が多い。  
   車庫のある福井口からアテンダントが乗り込む。  
 永平寺口(もと東古市)。ここから永平寺線が分岐していたが、今はバスが連絡する。

 携帯電話で清水孝彰さんと連絡を取り、田原町の駅で合流して、福井鉄道の電車を待つ。田原町はえちぜん鉄道三国芦原線との接続駅で、将来はえちぜん鉄道をLRT化して福井鉄道の路面区間に乗り入れ、福井駅前に直通させる構想もあるらしい。
 福井駅前のホテルのロビーで、清水省吾さん、そして福井大学工学部教授の川上洋司さんと落ち合う。川上さんは、えちぜん鉄道再生にかかわってきた研究者。ぼくが秋田内陸縦貫鉄道のことを話すと、
「内陸線はJRにとってもフィーダー線としての効果が大きいはず。廃止すれば地域開発の機会を失う。バスは鉄道の一部の機能しか代替できない。県外在住の地元出身者とも連携して支援体制を確立してほしい。」
との言葉をいただいた。
 
 北陸の元気は、北陸新幹線に伴う鉄道再編が生み出した

 それにしても、北陸の地方鉄道とそれを取り巻く人たちは、とても元気、などと書くと、まるで「地方鉄道の春」のように聞こえるが、これらの動きは、北陸新幹線の建設と北陸在来線のJRからの分離・第三セクター化とリンクして進行している。JR西日本は北陸新幹線開業時には北陸本線のみならず、城端線や氷見線、越美北線など、北陸地方の枝線までも経営分離したいと考えだと言われている。もちろんまだ正式表明はしていないが、地元では危機感を持っている。だから沿線の自治体には、現在のJR在来線と私鉄を含めた地域の交通体系の再編が大きな課題となっているのだ。。新幹線建設は、もはや地元のリスクのほうが大きくなっているのでは思う。
 それでも、住民と自治体の共同参画による鉄道再生のシステムと実績が生まれてきていることに、未来への希望が持てる。今回の旅は、たくさんの元気をもらった旅だった。


 福井鉄道車内。座っているのが清水孝彰さん。

 「はくたか15号」からは立山連峰がきれいに見えた。


 福井駅で清水孝彰さん、清水省吾さん、川上洋司さんと分かれたぼくは、加賀温泉までの切符を買い、475系普通電車に乗り込んだ。お昼は、清水省吾さんおすすめの店の「焼きさば鮨」。かつての急行列車の旅の気分になって楽しんだ。
 加賀温泉からは北陸フリーきっぷのエリアなので、後ろから来た特急「雷鳥17号」に乗り換えて金沢へ。そして始発の「はくたか15号」の自由席(すいていた)に座る。持っている指定券は次の「17号」のものなのだが、新幹線との接続が長岡の場合、所定の「とき」には間に合わない。三連休の最後の日なので、自由席は座れない恐れがある。そこで、1本前の「はくたか」を選択したのである。
 その「はくたか」は、やはり越後湯沢には行かない「長岡行き」だった。そして富山まではほぼ定時だったのに、それからは先行の普通列車が故障したとのことで、臨時停車を繰り返し、1時間近く遅れて直江津に着いた。すると、何と、後ろから来る「はくたか17号」が越後湯沢行きになるので、新幹線に急ぐ「お客さま」は「17号」に乗り換えてくださいとのこと。「15号」は「17号」の到着を待って長岡に向かうと言う。よし、それではと、隣のホームに行ったら、また放送。
 「17号は大変混雑しているので、乗り切れない場合があります。その場合は15号に乗ってください。15号は17号を待っています。」
 まあ、非常時の親切なのだが、まったくいやになる。そもそも上越線の除雪を手抜きしているからこういうことになるのだ。
 ぼくは「17号」の指定席券を持っているので、指定席車両の位置に並ぶが、ほかの乗り換え客もいっしょなので、席がないかもしれないと心配になったが、車内に入ったら、ちゃんと席が空いていたのでホッとした。自由席車もみんな乗り切れたようで、となりの「15号」は先に発車してしまった。そうなると、今度は17号が所定の新幹線に接続するかどうか、である。
 接続は、しなかった。15分ほど遅れて越後湯沢に着いたとき、ぼくは新幹線で座ることをあきらめていた。ところが、次の新幹線、ガーラ湯沢発の「Maxたにがわ」の一番前の車両に行ったら、なんとガーラ空き。1階の席だったが、夜なので関係ない。ゆっくりと足を伸ばして帰ることができた。

 大雪のために、一時は旅行を取りやめようかとも考えた今回。いや、清水孝彰さんが現地案内をしてくれることになっていたから、しかたなく悲壮な決意(帰った翌日が学校の3学期の始業式だったのです)をして、万一のときの子どもたちの世話も頼んで出かけた旅だった。でも、結果はオーライ。しかも収穫はいっぱい。(お土産もいっぱい買いました。)
 清水孝彰さん、そして北陸でお会いした皆さん、どうもありがとうございました。大変遅くなりましたが、ここに報告とお礼をさせていただきます。
 
 「北陸LRT訪問記」(2006.5)を見る
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