DD51が輝いていた      奥羽南線
    
     上野発青森行き普通421列車  1969.7.21.  山形     
 
 今、奥羽本線は、4つの区間に分断されている。「山形新幹線」が走る広軌の福島−新庄間、優等列車が走らないローカル線になってしまった新庄−大曲間、「秋田新幹線」が走る、広軌と狭軌併用の大曲−秋田間、そして、日本海縦貫線の一部を形成する秋田−青森間である。
 この4つの区間は、性格が違うだけではない。線路の幅が違うので、1本の列車で奥羽本線全線を直通することができないのだ。「山形新幹線」が山形まで開通したとき、それまで奥羽本線を経由して青森まで直通していた急行「津軽」は、仙山線を迂回しての運転になり、特急「あけぼの」は、陸羽東線経由(小牛田−新庄間はディーゼル機関車DE10が重連でけん引)になった。「新幹線」が新庄まで延びたとき、すでに「津軽」はなく、「あけぼの」は、上越・羽越線経由に変更された。
 長い幹線が、時代とともに役割を変えた例は他にもある。だが、物理的に直通列車の設定ができなくなったのは、ここ奥羽本線だけ。在来線の改軌・改良によって新幹線車両を直通させるメリットは否定しないが、そのために在来線が分断された姿を見るのは、過去を知るものには辛いことだ。
   
     DD51と「つばさ」、主役同士の交換   1969.7.21.  芦沢  

 ぼくの高校・大学時代は、もちろん東北新幹線も未来の話で、東北・奥羽・羽越の各幹線が、無煙化、電化、複線化による近代化と輸送力増強を進められていた時代だった。蒸気機関車は駆逐の対象だったが、それは輸送の後退ではなく、前進を意味していた。だから、電化やディーゼル化で蒸気機関車がなくなることは、残念なことだけれど、しかたがないと思っていた。それに、ぼくは鉄道自体が好きなので、ディーゼル機関車や電気機関車たちへの拒絶反応はなく、蒸気機関車と同じように、魅力的な被写体として接していた。
 
 ぼくが秋田大学に入学した1972年当時、奥羽本線は、大きく3つの区間に分かれていた。まず、板谷峠越えを含む、福島−山形間。すでに1968年に電化されているこの区間には、山形までの特急「やまばと」や急行「ざおう」が電車で運転され、電気機関車は、この区間専用のED78やEF71が活躍していた。
 一方、日本海縦貫線の一部である秋田−青森間(奥羽北線)は、1971年に電化され、電気機関車ED75の700番台が走り、1972年10月の羽越本線電化後は、電車特急も走り出した。
 その、二つの電化区間に挟まれた山形−秋田間は、電化を1975年に控えていたが、ディーゼルカーやディーゼル機関車DD51の天下だった。特に、秋田から日帰りで行ける新庄までの区間は、景色もよく、ぼくは、建植がすすむポールに追いかけられながら、撮影に通い続けた。このとき奥羽南線には、上野発青森行きの特急「あけぼの」、急行「津軽」、そして秋田行きの特急「つばさ」、急行「おが」などが走っていた。
 全国の主要幹線の電化がほぼ終わり、ローカル線の貨物列車の多くが姿を消した今、ディーゼル機関車の活躍場所は、数えるほどしかない。かつて心ないSLマニアに「赤ブタ」と罵られたDD51たちも、その多くが廃車になっている。国鉄の動力近代化に大きく貢献した彼らだが、蒸気機関車のように公園に展示されることもほとんどなく、その姿を消そうとしている。
 奥羽本線で彼らが主役であった期間は、わずか10年に満たない。そしてそれは、ぼくが東北へ通い、東北に住んだ時期と、みごとに重なっている。 DD51が本線の主役として生きていた時代の、一つの記録として、このページを見ていただければ幸いである。


  交換する上り列車が遅れている。退屈した若者たちが、ホームで相撲を取り始めた。この普通列車は、ホームよりも編成が長かった。1972.3.22.  四ツ小屋

 DD51の魅力
 1970年代初頭は、蒸気機関車の終焉の時代であったと同時に、ディーゼル機関車(DL)の全盛時代だったと言えよう。
 この時期、1950年代から開発されたDLが、ほぼ出そろい、本線用のDD51と、入換・ローカル線用のDE10の増産が続いていた。古いものでは、開発初期のDD50(米原にいた)や、本線用電気式DL・DF50、入換用のDD13がまだ第一線で働き、山陰にはドイツ製のエンジンを積んだ独特の風貌のDD54が配備されていた。除雪用のDLも開発され、雪国に配置が進んだのも、このころだった。
 DLは、動力方式によって電気式と液体式に、形態によっては箱型と凸型に区別される。
電気式とは、ディーゼル発電機で電気を起こしてモーターを回すDD50やDF50、液体式とは、ディーゼルエンジンをそのまま駆動に使うDD13やDD51など。DD51は、DF50の後継機として生まれたが、動力方式も、その形態も、まったく違っていた。DF50が、ほんの少し台形的な傾斜が着いた箱型のおとなしいスタイルなのに対して、DD51は、凸型の、飾り気のない武骨なスタイル。だが、機能的にまとめられたその姿に、ぼくは次第に愛着を覚えるようになった。また、秋田機関区には、そのDD51の1号機が、他の初期型とともに配置されていた。出っ張った丸目のヘッドライト、ひさしのない前面窓など、量産型と違う特徴があり、この1号機の運用を機関区で聞いて、追いかけたこともあった。

          独特の風貌のDD511(秋) 1972.6.29.   秋田機関区

 DD51の性能は、本線用の蒸気機関車とほぼ同じだが、旅客列車に求められるスピードと、貨物列車に求められるけん引力を兼ね備えた万能型である。奥羽南線では、旅客・貨物列車とも、いつも単機で運用されていた。
 蒸気機関車がすべて現役を引退して少したった1980年ごろからだろうか、若手の鉄道ファンの間で、DD51の人気が少しずつ高まってきた。蒸気機関車を駆逐したディーゼル機関車が、今度は電化で追われる立場になってきたことも関係していたのだろう。1990年ころには、首都圏に残っていた八高線のDD51重連に、注目が集まった。
 DD51の、細かいところで楽しいのは、エンジンの上についている、小さな回転目印。くるくる回る竹とんぼのように、アイドリングのときに、ゆっくりと回転している。これが、エンジンをふかすと、勢いよく回りだすのだ。機関区によって形が違うらしく、武骨な機関車の、かわいいアクセサリーのように見えた。
 1972年秋、東北地方では、奥羽南線の他に、北上線、釜石線、男鹿線、そして磐越東・西線でDD51が活躍していた。あたりまえのように走っていた彼らも、今は磐越西線の貨物列車1往復だけを残すのみとなってしまい、隔世の感を否めない。DD51独特のジョイント音、あの「ダダッ、チャチャッ、ダダッ」を、ぼくはいつまで聞くことができるのだろうか。

  丘を越えて    大張野−羽後境−峰吉川


   上り普通列車を見張り台に乗って撮る。    1972.5.7.   羽後境−大張野

 秋田から一番近い、奥羽南線の勾配区間は、秋田から3つ目の大張野から、羽後境、峰吉川と続く、出羽丘陵を越える区間。千分の10の、ゆるい勾配だが、丘の間を、カーブを繰り返しながら走る列車の姿は、なかなか魅力的だった。
 上の写真は、大張野から羽後境への最初のゆるいSカーブ。ここには列車見張り台があり、何度か登って写真を撮った。現在は広軌線と狭軌線の複線区間になっているが、去年行って見たら、見張り台は、クズの蔓に絡まれながら、そのまま残っていた。

      
       D51819(横)の引く上り貨物列車。1972.5.7.  羽後境−大張野
 「昼休みのD51」のページで紹介したが、1972年10月の羽越本線電化まで、奥羽南線には秋田−横手間に、1往復だけ、D51けん引の貨物列車が残っていた。これは、まだ横手機関区にD51が5両配置されていて、羽越本線の仕業への回送を兼ねていたためだ。ぼくにとっては思いがけない収穫だったが、今考えれば、ポールも架線もない区間を走るD51を、もっと撮っておけばよかったと悔やまれる。

 
  秋の日差しを浴びて    1973.11.8.  峰吉川−羽後境


 ススキの波の中を走る特急「あおば」   1973.11.8. 峰吉川−羽後境
 交換待ち。DD51のアイドリングが、静寂の中に響く。すでに、ホームには白いコンクリートポールが置かれている。  1973.11.8. 峰吉川

  
  院内峠の周辺
 秋田県から隣の県に行くためには、岩場の海岸を通るか、峠を越えなければならない。
 奥羽本線の、秋田と山形の県境には、雄勝峠(院内峠)があり、ここには千分の20近い勾配があった。
 線路の勾配(坂の傾斜)は千分率で表される。「千分の20」は、水平距離1000mに対して、高度さが20mであることを示す。
 幹線の場合、勾配は千分の10までに抑えるのが基本で、機関車の性能は、千分の10の勾配でどのくらいの重量を引けるのかが基準になっている。それ以上の勾配のある区間では、重い列車は補助機関車(補機)をつけて運転することになる。しかし、院内峠の場合、ここを通る貨物の量は、それほど多くないので、単機で引けるだけの編成に収まっていた。
 峠の秋田県側は、一番峠に近い院内から、複線で一気に上って行く。それに対して山形県側は、真室川から釜淵、大滝、及位と、河岸段丘の上を走り、院内への峠のトンネルに入って行く。蒸気機関車と違って、地味な峠越えだが、周辺の景色が、いい雰囲気を作り出していた。


 秋田県側の複線区間を上る普通列車。  1973.4.29.   及位−院内

 上の写真は、院内峠の大俯瞰である。複線の左側に、単線時代の雪覆いの遺構が見える、大俯瞰である。この場所に登る道は、ない。山の斜面を、がむしゃらに登った。
 ぼくに俯瞰(ふかん)撮影の極意を教えたのは、秋大鉄研の先輩、O氏である。ぼくが、どちらかと言えば「犬走り派」(線路際からの写真が多い)なのに対して、O氏は「俯瞰派」。この日も、「おおほ、院内峠に俯瞰ができそうな場所があるから、行かんか?」と誘われた。行ってみてびっくり。院内駅から国道を徒歩1時間。そして国道からO氏が指差したのは、はるか山の上(つまり、ここ)。以前、列車からポイントを探していて、ほんの少し、木々の切れ間を見つけたと言うのだ。
 登れそうな斜面の見当をつけて、木の枝をつかみながらの登攀。高校時代はワンゲルにも所属していたぼくだが、ふつう、山は道を登るものだと思っていた。でも、やっと登ったその場所から線路がうまく見えたとき、ぼくはO氏の眼力に敬服した。
 この場所は、午前中が順光なので、昼ごろには山を降りたのだが、院内駅まで歩く元気はなく、通りかかった車の何台目かに、駅まで乗せてもらった。
 
  
    及位駅の、朝のラッシュ。人がたくさんいる。      1973.6.17.

 ぼくは、院内峠の山形県側のほうが好きだった。おだやかな山と、段丘の上の田んぼ、そして適度にカーブしながら走る列車。6月、ここでぼくはまる1日を過ごした。

 
  しっとりと落ち着いた、みどりの景色の中をディーゼル急行が走る。
    1973.6.17.  釜淵−大滝




 このころ、山の田んぼにも休耕田はなかった。  1973.6.17. 釜淵−大滝


  峠の道を旅客列車が行く    1973.6.17. 釜淵−大滝



  夕暮れ時、上下の普通列車が交換する。 1973.6.17.  大滝


 平野の風景
 秋田県内での奥羽南線は、院内峠や出羽丘陵の区間を除けば、穀倉地帯の仙北、平鹿の平野、そして秋田平野の広々とした風景の中を走る。単線区間のため、普通列車は、対向列車の待ち合わせや、特急・急行列車の待避を繰り返しながら走っていた。通過する優等列車も、駅の構内は、ポイントの通過制限速度まで減速して通過して行った。
 ぼくがいつも感じていたのは、東北本線との、列車速度の違い。秋田から夜行急行(ぼくがよく使っていたのは季節急行「おが2号」)に乗り、ジョイントの音を子守り歌に寝ているのだが、東北本線に入ると、列車のスピードがずっと速くなるので、駅名標を確かめなくてもすぐわかった。
 数年前、東京から新幹線「つばさ」に乗って、福島から奥羽本線に入ったとき、東北新幹線との速度差と、線路際の景色の身近さに、昔のことを思い出して、ぼくはフッとうれしくなった。線路幅が広がり、スイッチバックがなくなり、新幹線からの直通列車が走るようになっても、やっぱりここは奥羽本線なのだ、と。
 列車には、乗っている人の感覚とマッチする速度というものがあると思う。ぼくの場合、時速60kmから80kmくらいがちょうどいい。窓を開けて、風に当たりながら、過ぎていく景色を眺めるのには、あまり速くてはいけないのだ。そして奥羽南線は、ぼくのわがままを十分満足させてくれた、すばらしい線区だった。

 

  秋田平野を走る下り急行「津軽2号」。丘の上を焼き込むと鳥海山が見えているのだが……。 1973.5.26.   四ツ小屋−秋田  
  
   当時、奥羽南線は自動閉塞だが、CTCになっていなかったので、交換駅には必ず駅員がいた。   1973.6.17.  後三年   


  クルミの木がすっかり葉を落とした。もうすぐ雪がやって来る。
    1973.11.8.  大曲−神宮寺


  
   ディーゼル急行が都市間輸送の主役だった。この列車は、秋田発上野行きの急行「おが1号」。 1973.11.9. 下湯沢−十文字 

  
  秋の静かな風景に、DD51はとても似合っていた。 1973.11.9. 下湯沢−十文字
 

                            和田  1973.9.21.
 ぼくが撮影に通っている間にも、電化工事は着々と進んでいった。工事事務所でポールの建植予定を聞き、ポールが建たないうちに撮影に出かける計画を立てた。
 工事の過程で、区間ごとに信号用の電流を止めて配線工事をすることがあり、その日1日だけ、上の写真のようなタブレット閉塞が出現した。奥羽南線の代表列車、特急「つばさ」とタブレットの組み合わせは、「一期一会」のすばらしい思い出である。

  ポールが建った仙北平野を「つばさ」が走る。 1973.11.9.飯詰−大曲 
 
  雪国の日々

 
   客車の足回りに着く雪が、冬の厳しさを物語る。 1974.1.25. 大曲

 雪国で冬を過ごすことが、ぼくの小さいときからのあこがれだった。1972年、ぼくは心を躍らせて、雪を待った。
 この年は暖冬で、秋田市内では、ときどき畑の土が見えてしまうくらいだったが、それでも、積もった雪を毎日見ていられるのは幸せだった。雪に喜ぶぼくを、新潟県の豪雪地帯出身の寮の仲間は、あきれた顔で眺めていた。
 まとまった雪が降り始めたのは、12月の下旬になってから。天気予報とにらめっこをしながら、ぼくは雪の中を走る列車の写真を撮りにでかけた。
   
       雪の中、貨物列車が通過する。 1973.1.27. 大張野

 回送機がついてDD51重連となった貨物列車。
          1973.1.15. 真室川−釜淵


 子どものときに、テレビで見た、「女中っ子」という映画があった。忙しい親に代わって女中さんに面倒を見てもらっていた男の子が、学校でいじめられて家に帰ったとき、母親にしかられ、ちょうど郷里に帰っていた女中さんの後を追って家出をする。その女中さんの郷里が、真室川から奥に入った村。駅から雪の中を歩き出した男の子は、道に迷ってしまう。入れ違いに東京へ戻る上り列車に乗っていた女中さんは、線路際の馬そりの村人からそれを知らされ、列車から、積もった雪の上に飛び降りる……。もちろんハッピーエンドになったのだが、クライマックスの雪の中のシーンが印象的だった。その列車は、蒸気機関車が引いていたから。
 そのイメージを求めて、1973年1月、真室川の駅に降り立ったのだが、雪はようやく地面を覆っているだけで、とても列車から飛び降りられるものではない。この年の冬は、ぼくに少しの欲求不満を残して、去って行った。

 
  冬の土崎駅前。そりを使って荷物を運ぶ人の姿があった。(ここは秋田の一つ北の駅で、奥羽北線のエリア)  1973.1.29.

 暖冬だった大学1年の冬と打って変わって、翌年の冬は、その始まりから強烈だった。
 秋田の初雪は11月18日だったが、内陸部では、この初雪がそのまま大雪になり、、春まで融けない「根雪」になってしまった。まだ除雪用のディーゼル機関車を工場で整備しているうちに、線路の上に雪が積もってしまったのだ。
 当時、除雪用には、ラッセルヘッド付きディーゼル機関車DD15と、ロータリーヘッドをつけたディーゼル機関車DD14が配置されていたが、どちらも夏場は入換用として使用されているので、工場で冬用の装備を付けないと運用できない。小型のモーターカーのラッセル車もあるのだが、30cm以上の降雪には対処できず、脱線の危険もあるので、大雪のときの本線の除雪には運用できない。一方、動力をもたずに機関車が後ろから押すタイプの、旧来のラッセル車もまだ配置されていたので、これはすぐに除雪列車として活躍できる。
 除雪列車は、それぞれの線区、区間ごとに、あらかじめ使用形式やダイヤが決まっていて、奥羽南線の院内峠区間は、新庄機関区のDD15の受け持ちになっていた。
 ところがこの年、除雪用のディーゼル機関車がまだ実戦配備される前に雪の攻撃を受けてしまった秋田鉄道管理局は、DD15が実戦配備されるまでの措置として、無動力のラッセル車を機関車が押して、急場をしのぐことになった。そこで新庄機関区では、この春まで陸東・陸西で使用されていて、今は緊急時のための予備機となっていた蒸気機関車C58を、ラッセル車の推進機として抜擢したのである。
 このSLラッセルは、1973年11月19日に運転され、そのことを後で知ったぼくたち秋田大学鉄道研究会のメンバーは、「行きたかったなあ」と顔を見合わせた。
 この時期、ラッセル車なんて、めったに走るものではない。だからこそDD15がまだ工場にいたのだ。ぼくたちは貴重な機会を逃してしまった……。
 ところが、早すぎる寒波が、またやってきた。大雪が降った12月9日夕刻、秋鉄局保線課に電話をすると、この夜の「雪317列車」と「雪304列車」(新庄−院内間の往復)に、C58を使用するとのこと。だが、この列車を撮りに行くのは、時間的に無理だった。
 雪が降り続いた翌10日、ぼくたちは、きっときょうも走るという確信のもとに、15時に秋田駅に集合して、再び秋鉄局保線課に電話をかけた。(お世話になりました。)ところが、きょうのラッセルは、「雪315」と「雪302」だと言う。きのうより時間が早い。間に合わないか? DD15なのか? 受話器を握ったまま、ぼくは体がこわばってしまった。
 電話の向こうから、返事が来た。 
 「SLですよ。ええ、C58。雪315は、新庄16時13分発、院内19時20分着です。」
 ぼくたちは、そのまま、秋田15時28分発の上り急行「こまくさ」に飛び乗った。

 ラッセル車の運転は、本線の場合、定期列車の運転にに支障がないよう、夜間か早朝に行われることが多い。この「雪315列車」も、ぼくたちが写真を撮れるのは、院内に着いて一休みしている夜景だけ。それでも、もう二度と見ることができないだろうC58ラッセルなのだから、授業も何もあったものではない。しだいに暗くなる車窓を見ながら、このときの同行4人は、期待に胸を躍らせていた。
 それにしても、雪が多い。12月の初めなのに、去年の冬は一度も見ることができなかったほどの積雪だ。かき寄せられたホームの雪が、駅名標を覆いかくすほどになっているし、駅舎やホームの待合室の屋根には、屋根がつぶれるのを心配するくらいの雪が積もっている。これでは、ラッセル車を出さなければ、線路は埋まってしまう。
 ぼくたちの乗った列車が院内に着くころには、雪はやみ、構内灯と雪明かりに照らし出された静かな夜の景色が、ぼくたちの目の前にあった。駅員に、ラッセルの写真を撮りに来たことを告げ、到着が「上り1番線」だと教えてもらう。となりに数本の側線があり、撮影には、うってつけの場所だ。停車位置を確認し、ホームの端から線路に降りて、撮影ポイントまで回り込む。(せっかくの写真に自分たちの足跡を写さないようにするためだ。)
 三脚を立て、カメラをセットし、バルブ露光の時間を相談する。一番くわしいO氏の、「ASA400、F5.6で90秒が基準だ」の言に従い、冷え込んだ構内で、緊張して待つ。
 定刻を2分ほど過ぎたとき、「ファン、ファン」というタイフォン2声、そして、蒸気機関車の、「ボッ、ボッ」という短笛2声。まちがいない、キ100型ラッセルと、それを押してきたC58の、場内信号機の「注意」確認の合図だ。そして、3灯のヘッドライトが、ゆっくりと山を降りて来た。雪明かりと構内灯に、黒い車体が浮かび上がる。白煙が、真っ暗な空に吸い込まれて行く……。
 「ラッセル!」
 ぼくたちは、寒さを忘れて、その姿に見とれていた。


  奥羽本線 雪315列車  キ100型+C58275(庄) 1973.12.10. 院内

 1973年から1974年にかけての冬、雪国は、「38豪雪(1963年1月)以来」という大雪に見舞われた。この「雪315列車」は、その序章に過ぎなかったことを、ぼくはあとで知ることになる。
 
 秋田大学の冬休みは、12月21日から1月20日までの1ヶ月間。ぼくは、12月23日の上りの夜行季節急行「おが2号」で東京に向かった。2週間前のC58ラッセルの光景を思い浮かべながら、帰省ラッシュと逆コースのガラガラの車内で、DD51のスチームの暖かさに、いい気持ちで眠っていた。
 ふと気がつくと、列車は闇の中で停車している。不思議に思って窓を開けると、DD51のヘッドライトが遠くに見えるが、一向に動き出さない。右側に複線の下り線があるので、場所は院内峠の上り勾配だとわかった。しばらくして、車内放送があった。雪でスリップして登れないので、院内まで引き返して機関車をもう1両連結するとのこと。放送の後、少しして、列車はバックを始めた。数分で院内に戻り、DD51重連で発車。今度は軽々と峠を上って行った。
 このために列車は2時間近く遅れた。ぼくはこのとき、郡山から磐越西線に入り、会津若松から只見線に乗って、上越線の小出に出る計画だったのだが、小出行きには間に合わず、会津川口まで往復して、郡山から東北本線経由で帰京することにした。
 ところが、若松からの只見線も、大雪で2時間遅れ。しかも、C11の押すラッセルと交換したり,途中で斜面の雪が崩れていて非常ブレーキをかけて停まり、運転士と車掌がスコップで雪をどけたりというできごともあって、緊張と興奮の連続だった。(乗務員、関係者の皆さん、すみません。)
 
    
 キ100型+DD51のラッセル。キ100型は、ターンテーブルでの方向転換が必要だった。ラッセル用のディーゼル機関車は、前後に除雪装置をつけているので、そのまま折り返しができる。キ100は、蒸気機関車時代のラッセル車と言える。   1974.1.25. 大曲

 1974年1月は、正月から、新潟、京都、そして九州への撮影旅行に出た。九州も寒い、この冬だった。
 秋田を1ヶ月近く留守にしているうちに、雪は、さらに積もっていた。秋大鉄研のO氏からさっそく電話があった。
 「奥羽南線にロータリーが出るぞ。」

 線路に積もった雪を除雪するのは、ラッセル車の役目。翼(ウィング)を広げて、雪を両側へ吹き飛ばす。雪が少なければ小型のモーターカーラッセルでよいが、この冬はすでに大型ラッセルが何度も出動していた。
 しかし、跳ね飛ばされた雪が、しだいに線路の両側に堅い雪の壁を作り、列車はV字谷の底を走るようなことになる。そのままでは列車の走行が危険になるので、今度はその雪の壁を削り取って、雪をさらに遠くに飛ばす作業が必要になる。これが、ロータリー車の仕事だ。
 ロータリー車も、蒸気機関車の時代は、キ620型という、蒸気機関を動力にして回転羽根を回す車両が活躍していた。だが、この蒸気式ロータリー車による作業には、たくさんの人手を必要とした。
 蒸気式ロータリー車による除雪は、通常、4両の車両が1チームとなって実施された。先頭は、蒸気機関車。これが、側雪(がわゆき・線路の脇に積もった雪のこと)を線路上にかき寄せるマックレー車を引っ張る。マックレー車は、ウィングを張り出して、雪をかき寄せる。次に、ロータリー車が、かき寄せられた線路上の雪を、プロペラに巻き込んで吹き飛ばす。ロータリー車は、自力走行ができないので、後ろから蒸気機関車が押す。これで1チームである。この除雪編成のことを、それぞれの車両の頭文字をとって、「キマロキ」と呼んでいた。
 1972年から73年にかけての冬まで、新庄保線区には、すでに配備されていた新鋭のディーゼル式ロータリー除雪機関車DD14の予備として、蒸気式ロータリー車とマックレー車が残っていた。これらの車両の引退を前に、1973年2月18日に、陸羽西線で、ファンサービスのために「デモ運行」が行われた。もっとも、雪が少なかったこの年のこと、わずか数100mの区間に、わざわざ雪を人力で積み上げての演出だったが、「最後のキマロキ」の、貴重な記録になった。

  
 C58に引かれたマックレー車がやってきた。   津谷−古口

 
 マックレー車が側雪をかき寄せる。

 
 ロータリー車が、線路上の雪を吹き飛ばす。

 
 回送のために、ロータリー車とマックレー車を連結する。     古口

 さて、DD14である。DD14は、入換用機関車DD13と同じエンジンを積んだロータリー用ディーゼル機関車。夏場は、貨車や客車の入換作業をすることもあるが、冬は、ロータリーヘッドを取り付けて、出番を待っている。ロータリーヘッドには、両手を広げるようにして側雪をかき寄せる翼(ウィング)がついていて、マックレー車の役割も合わせてこなしてしまう。単機でもロータリー作業をしながら自走できるが、パワーが落ちるため、ふつうは後ろからもう1両の機関車で押してもらう。だから、「キマロキ」のうちの、「ロキ」だけで作業ができることになる。
 さらに、左右どちらにも雪を飛ばす(投雪)ことができ、角度や強さもすぐに変えることができるというスグレモノ。このDD14によるロータリー除雪車が、奥羽南線に出動するというのだ。
 ロータリー除雪車は、線路の側雪の高さが1.5mほどになると、出動態勢に入る。だから、ラッセル車よりも、出動する線区、区間は限定されるし、暖冬で雪が少なければ、一度も出動しないまま春を迎えることになる。秋鉄局管内でも、前年の冬は、一度も出動していなかった。
 ロータリー除雪車の写真を撮るには、いくつもの制約がある。ロータリーは、昼間に運転されるのだが、ロータリーが出動するほどの大雪のときは、列車ダイヤが大幅に乱れていたり、あらかじめ運休する列車があったりするので、(当時は車を持っていない)ぼくたち自身の移動が制限される。また、あらかじめロータリーのダイヤを知っていないと、どうにもならない。さらに、迫力あるシーンを撮影するには、ウィングを全開にして、雪を目いっぱい遠くへ飛ばす場所を選ばなければならない。
 安全面でも、注意が必要だ。正面からのアングルが、一番よいのだが、ウィングを広げる幅のさらに外側に安全距離を置いてカメラを構える。DD14ロータリーの作業速度は時速10キロメートルと、遅いのだが、視界が悪いと、乗務員もこちらに気づかない。ウィングの前に転がり落ちたら、羽根に巻き込まれて、「人間のコマ切れ」になってしまう。それに、飛んでくる雪の塊は、直撃を受けたら、けがをするほどだ。雪が飛んできたら、身を伏せるしかない。絶対に事故は禁物だ。
 さて、1974年1月25日、奥羽南線横手−秋田間に「特雪691列車」(DD14ロータリー)が運転されることを知り、秋田大学鉄道研究会メンバーは、連絡を取り合って、授業を休める人間だけ集合、飯詰−大曲間での撮影に成功した。激しい雪で視界が悪く、緊張の中での撮影だった。

  
   特殊排雪691列車 DD146(庄)+DD51685(秋) 
                      1974.1.25.   飯詰−大曲

 
 初めて目の前にしたDD14ロータリーは、雪に押しつぶされそうになったレールを必死に守ろうとして、厳しい闘いに挑んでいた。

 雪を吹き飛ばすDD14ロータリーの後ろには、DD51のエンジンが力強く響いていた。
 
 近づくロータリーを撮影するぼくたちは、保線作業員が乗務員に対してするように、右手を上げて、待避完了の合図を送った。ぼくたちの姿を認めた乗務員が、ぼくたちに雪が当たらないように、直前で、投雪方向を右から左に変えてくれた。ぼくたちは、雪と闘う乗務員に、感謝と激励の気持ちを込めて、大きく手を振った。

 DD14ロータリーを撮った興奮は、翌朝、白い衝撃に変わった。未明からのドカ雪で、秋田県内の鉄道は完全にストップしてしまったのだ。
 この年の豪雪について、秋田大学鉄道研究会機関誌「フランジ」No.6で、20歳のぼくが「豪雪報告」を書いているので、それを読んでいただきたい。


 早春賦

   
 まだ雪に埋もれたホームで、郵便局員が郵便車を待っていた。
      1974.4.8.泉田


 1974年の遅い春が、ようやくやってきた。4月になると、田んぼの雪も消え始め、黒い土が、ようやく香りを放つようになった。だが、除雪されて積み上げられた雪の山は、大学の構内でも、4月末まで残っていた。
 この冬の豪雪は、たくさんの被写体を提供してくれたが、それ以上に、雪国の冬の厳しい実相を、東京生まれのぼくに突きつけた。大学時代の4年間、ぼくは秋田放送の報道部でアルバイトをしていたが、この冬は、被害のニュースが次々に入り、記者たちも緊迫した顔で走り回っていた。
 「雪はきれいで楽しいだけのものではない」ということを理屈ではわかっていたのだが、そのことを実体験した日々だった。別のページに紹介した「1974豪雪報告」の文章からは、そんなぼくの「気負い」が、今、読み取れる。
 

 8002列車「つばさ51号」をDD51が引く。
      1974.4.8.   真室川−釜淵

 奥羽南線は、鉄道ファンにとっては、地味な線区だったようだ。ぼくは、他のファンに会うこともなく、一人で、そして秋大鉄研の仲間たちと、撮影を楽しんでいた。
 1974年には、奥羽南線のほとんどの区間に電化のポールが建った。そして1975年11月25日、奥羽南線山形(羽前千歳)−秋田間の電化開業、DD51たちは、この線区から消えた。
 DD51が本線の主役だった時代は、国鉄の動力近代化・輸送力増強の時代だった。鉄道が陸上輸送の主役として輝いていた時代だった。
 DD51が本線の主役に戻る日は、もう来ることはない。だが、鉄道が陸上輸送の主役に戻る日を、ぼくはもう一度見たいと思っている。

       
                      1973.1.27.  大張野

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