1974豪雪報告 大穂耕一郎 |
(この文章は、秋田大学鉄道研究会機関誌「フランジ」No.6より転載したものである。) 今年の冬は全国的に寒波に見舞われ、日本海側の地方では豪雪被害が続出、秋田県においても、地方気象台始まって以来の豪雪に、鉄道は完全にマヒしてしまった。 もうすでに3月となり、あたたかい陽射しが白い雪面に照り、どこからともなく土の香りが漂ってくるこのごろであるが、ここで今冬の豪雪を、鉄道を中心として振り返ってみよう。 1974.12.10. 後三年 1. 初雪が根雪に 11月18日、秋田県地方に降った初雪は、そのまま3日以上降り続き、山間部では、初雪が根雪になったという、めずらしい事態となった。 この早い大雪のため、院内峠に19日、C58のラッセルが、雪317レ、雪304レのスジで運転された。そして12月に入り、寒波が押し寄せ、12月7日ごろから1週間、そして20日過ぎにクリスマス豪雪が、秋田県など日本海側を襲った。列車ダイヤは大幅に乱れた。帰省する私を乗せた23日の奥羽本線6402レは、院内峠を上りきれず、退行して院内までもどり、待機中のDD51を前部に連結、及位まで重連運転を行った。今冬は厳しいという感じが肌にしみた。 2.異常豪雪まで 年が明け、1月10日から11日にかけて、県南中心にドカ雪となり、大曲で積雪160cmとなった。北上線、田沢湖線が一時不通となり、奥羽本線も、401レが110分遅れるなど混乱した。 16日は風雪模様で、ラッセルが除雪してできた雪の壁に吹きだまりができ、奥羽本線2046レ(DD511)が神宮寺上り場内信号で停止しているうちに、列車と線路の間に雪がたまり、立ち往生してしまった。23時25分に開通したが、特急・急行が各地で足止めされ、1002レ、1004レは羽越、陸羽西線経由で運転された。五能線は、風波のため、しばしば不通になっていた。 18日夜は青森県がドカ雪に見舞われ、19日にかけて、第3次運転規制が敷かれた。19日には、普通はめったにお目にかかることのないロータリー車(特雪691レ DD146+DD51)が横手−和田間に出動した。 21日には、関東地方に雪が降り、栗橋−古河間の架線切断で、401レが4時間遅れた。22日は、前夜からの風雪と上記の架線事故のため、1001レは8時間55分、1003レは9時間33分遅れて秋田に到着した。 24日には、8002レ(DD51538)が神宮寺−刈和野間で吹きだまりに突っ込み、立ち往生、14時過ぎに神宮寺へ引き上げ、15時30分開通。この影響で11D、711D、714Dが運休された。支線区でもほとんど吹きだまりに突っ込み、立ち往生が相次いだ。中でも陸羽東・西線では、モーターカーラッセルが吹きだまりに突っ込んでしまった。また、奥羽北線も、14時40分、矢立峠で下り貨物が吹きだまりに突っ込み、下り線が7時間以上にわたって不通になった。 ラッセル車 キ100型は、まだ現役だった。 1974.1.25. 大曲 1月25日には、特急・急行が9本運休されるなど、県内の鉄道はキズだらけで青息吐息。特雪691列車が横手−秋田間に運転。そして、いよいよ運命の1月26日を迎えたのである。 駅構内も、雪でいっぱいになっていた。 1974.1.25. 大曲 3.異常豪雪の惨状 1974年1月26日未明から降り始めた雪は、瞬く間に線路を埋め尽くした。朝9時過ぎ、学校へ行く途中の、秋田−秋田操間の線路がすっぽり雪に埋まり、足で探しても線路が見つからなかったのである。26日9時現在の積雪は、秋田88cm、横手199cm、鷹ノ巣112cmとなり、8時には秋田鉄道管理局開局以来初の第5次運転規制(通勤通学列車以外すべて運休し、除雪に全力を上げる、最高の規制。だが、通勤通学列車も、この朝は動かなかった。) この日、夜行列車、早朝列車は、表のように、みごとに立ち往生してしまった。乗客は27日夕刻までには目的地へ向かったが、県内の鉄道は完全にダウンしてしまった。26日には、東能代から秋田に向かったラッセル(キ100+ED75)までが、羽後飯塚で脱線してしまったのである。 1974年1月26日の立ち往生列車の状況 列車 立ち往生駅 26日の乗客対策 401 津軽1号 和田 16時30分に秋田着 403 津軽2号 横手 車内泊 1001 あけぼの1号 飯詰→大曲 車内泊 1003 あけぼの3号 後三年→横手 車内泊 801 鳥海2号 羽後亀田 バスで秋田へ 4001 日本海 羽後岩谷 19時過ぎ秋田着 4002M 白鳥 土崎 車内泊 504D しらゆき 二ツ井→森岳 車内泊 1月26日、27日は、秋田県内の鉄道は完全にストップしてしまった。この間、秋鉄局管内のロータリー車を総動員(といってもDD14型4両のみ)し、ラッセル車や人海戦術によって除雪を進め、28日には日本海縦貫線と、男鹿線、阿仁合線、矢島線、五能線が開通、「白鳥」「いなほ2号」が運転を再開した。雪が深い奥羽南線は除雪が遅れ、30日になってようやく開通、「つばさ」の運転にこぎつけた。そして2月2日には田沢湖線が開通、2月4日には、北上線が9日ぶりにようやく開通したのである。しかし、開通したと言っても、秋田操車場などは雪に埋もれたままで、貨物の滞貨解消には冬いっぱいかかるということである。 2月中旬から寒気もゆるみ、しだいに雪もとけてきているが、豪雪の与えた影響は、とてつもなく大きい。貨物輸送ができなくなり、春に必要な肥料の生産が遅れたり、県南ではリンゴ園が大打撃を受けたり、地方財政が底をついたり……。 雪の壁の中を「つばさ」が走る。 1974.2.12. 峰吉川−羽後境 久しぶりの、穏やかな日。だが、車窓には雪の壁が延々と続く。 1974.2.12. 峰吉川−羽後境 この日もロータリーが出動した。豪雪との闘いは、まだ続く。 1974.2.12. 峰吉川−羽後境 特雪691列車 DD14のロータリー・ヘッド。ウィングが側雪をガリガリと削り取っていく。 1974.2.12. 峰吉川−羽後境 4.今回の豪雪における問題点 国鉄大混乱の半分は、人災によるものだと言われている。2年続きの暖冬で、雪への対策が甘くなっていたこともあるが、まず第一に、雪害対策の不備があげられよう。秋鉄局管内のロータリー車はDD14型4両であるが、このうち県内には、横手に1両あるのみで、しかも、車庫から本線に出すだけで26日まる1日かかるというひどさ。キマロキ時代から見れば近代化されたとは言え、1両のロータリーでは少なすぎるだろう。 県内のラッセル車は、DE15型が1両(秋田操)、DD15型1両(横手)、それに機関車が推進する箱型ラッセルが13両である。しかし今回は、ラッセル車を本線に出すまでに時間がかかる始末で、まったく後手に回った感じである。それに合理化により保線係員が削減され、機械化されたといっても、実際は弱体化されているのが実情であろう。 また、ポイントに雪がつまって転換できないという事故も多い。融雪装置の強化が課題であろう。そして、出稼ぎで除雪要員が確保できないこともある。さらに、特急電車485系は、耐雪装備が完全でないまま投入されたので、車両故障が目立っている。 いったん事が起これば、「アラ」がどんどん見えてくるものである。国鉄当局は、この「アラ」を握りつぶすことなしに、「アラ」療治をすることが必要であろう。「雪に弱い国鉄」と言われないためにも。 秋田大学鉄道研究会機関誌「フランジ」No.6 1974年3月9日発行 「DD51が輝いていた 奥羽南線」に戻る |