受験加護EF66D51

 高校受験


   181系時代の特急「あさま」。JNRのマークがうれしい。1969.2.23 上野

 1968年、中学3年生の秋に鉄道雑誌というものに出会ってから、ぼくの鉄道趣味は鉄道写真の撮影が中心となった。

 12月に千葉の蒸機C57とC58、そして佐倉駅構内で8620の写真を撮り、初めての1日がかりの撮影行の成果に大感激したものの、高校受験を控えていたぼくにとって、次の撮影行は、入学試験の終了を待たなければならなかった。鉄道雑誌は買ったものの、勉強の合間に親の目を盗んで隅々まで読み、情報を頭に貯めておくことで、ひたすら春を待ったというわけである。

 1969年1月、東大闘争安田講堂攻防戦をテレビで見ながら問題集を解き、受験の月を迎えた。2月15日の私立高校入学試験の朝、受験校近くの山手線沿いの道を歩いていたら、貨物列車がやってきたのだが、その機関車を見てびっくり仰天。最新型の貨物用電気機関車として雑誌に載っていた、大きな車体といかついマスクのEF66だったのである。東海道・山陽本線だけを走っているとばかり思っていたマンモス機関車を、山手貨物線で、しかも入学試験当日の朝に初めて見るなんて、これ以上の吉兆はない。感激に体を火照らせて入試会場に向かい、翌日の発表は、もちろん合格。「そりゃあそうだよ」と涼しげに結果を受け取ったぼくの頭には、コンテナ列車を引くEF66の姿が再び浮かんでいた。
 2月20日は都電に乗って、都立高校の試験へ。自分の感触ではまず大丈夫。あとは、どっちの高校に配分されるかが気がかりだった。
 当時の都立高校は、「内申書重視」と「学校群」いう制度を採っていた。ぼくの学年はその3期生にあたる。中学の9科目の成績を点数化し、それと試験当日の点数(英数国のみ)を合わせて合否を決めるというもので、しかも、普通高校は数校を一つのグループとして、個別の高校ではなく「学校群」を受験する。そして、どの高校に配分されるかは合格発表を見なければわからないというものだった。
 ぼくが受験したのは「41群」。ぼくの自宅と同じ文京区内にある小石川高校と竹早高校だが、両校には校風の相違のほかに決定的な違いがあった。それは、小石川高校へは都電で通学できるが、竹早高校へは徒歩通学しかすべがないということである。しかも竹早高校は、ぼくがその9年前まで通っていた明照幼稚園の近所であり、幼稚園への道を再び通わなければならないのだ。幼稚園は好きだったけれど、また通うのは勘弁してほしかった。

 初めてのD51

 
   上野駅で、キハ82系の特急「つばさ」を撮った。右は常磐線の401系。

 ともあれ、入試が終わったということは、カメラを持って出かけることができるということ。次の日曜日には、もう上野駅に出かけて、EF58や181系の特急「あさま」、それに客車や急行電車をカメラに収めている。
 1969年3月2日、都立高校の合格発表の前日が日曜日。もちろんぼくは早朝から出かけた。自宅最寄りの地下鉄茗荷谷駅の池袋行きの始発が5時ちょうど。これに合わせての出発である。
 まず、上野駅へ。青森から到着した583系の「ゆうづる」や、DL化間近の成田線からのC57を撮った。そして、秋葉原から総武線を千葉へ、さらにC57の引く客車列車に物井まで乗った。
 このころはまだ、貨物列車のダイヤなど知らなかった。客車列車の時刻に合わせて動き、貨物が来れば運がよかったと喜ぶだけだった。でも、すでに一部でDE10を前につけた習熟運転が始まっていて、成田駅に入ってきた貨物列車はDE10だけの牽引。写真は撮ったが、物足りなさが残った。
 そこで、予定を早く切り上げて、市川の江戸川の鉄橋に行ってみることにした。D51が新小岩―蘇我間で貨物列車を引いていることは雑誌で知っていたが、ぼくはD51という蒸気機関車を知ってはいたものの、まだしっかり見たことも、写真を撮ったこともなかった。蒸気機関車の代表であるD51の写真を撮ることができれば、この日の一番の収穫になる。とにかく鉄橋の端の土手で待っていれば、一本ぐらいは来るのではないか。そんな頼りない思いを抱いて、午後の2時過ぎに市川駅で国電を降り、曇り空の下を江戸川の鉄橋へと歩いて行った。
 広い土手に上り、線路の柵のそばで、ウロウロ待つ。黄色の101系電車が何本か通り過ぎたあとで、鉄橋の向こう、小岩側から蒸気機関車の汽笛が聞こえてきた。ぼくはビクッと体を緊張させて、コニカVAを鉄橋に向けて構える。巻き上げレバーと距離計を確認する。
 鉄橋の向こうで汽笛が長めに鳴った。「ガダダダダダ……」と鉄橋が音を立て始めた。深呼吸して見つめると、蒸気機関車の顔が近づいてくる。大きい。ボイラーが太い。煙突の前に枕(給水過熱器)が載っている。間違いない、D51だ! ぼくは肘を脇につけて興奮を抑え、ファインダーの中のD51の姿が大きくなったときに、息を止めてシャッターを押した。ぼくの横を、D51型532号機が轟音とともに通り過ぎて行った。ぼくが写真を撮った初めてのD51だった。
   
 こんなにうまくD51の写真が撮れたのは、明日の吉兆にちがいない。そう思ったぼくは、翌日、安心して高校の合格発表を見に行った。結果は、小石川高校に合格。これでぼくの都電通学が決定したのである。

 コニカVA

 父のカメラ、コニカVAは、当時からすでに古典的なカメラだった。ずっしり重い手ごたえ、シャッタースピード、絞り、ピントなどすべてがマニュアル操作のレンズシャッター式カメラは、味はあったが故障も多かった。ぼくは、中学3年の秋から高校卒業までの3年半をこのヘキサノン50ミリレンズを装着したカメラとともに過ごしたのだが、写りは一眼レフに負けなかったものの、泣かされたことは何度もある。
 最初に泣かされたのは、はじめてD51を撮った日の朝の写真である。成田から早朝の上野に到着したC57を何枚も撮ったのだが、現像が上がってきてびっくり。「ゆうづる」の1枚をのぞいては、露出不足でどうにもならない。コニカVAには露出計がなく、ぼくは父に、「シャッタースピードは250分の一にして、晴れの日は絞りF8、曇りのときはF4で撮ればいい」とだけ教わっていた。だから、早朝の駅のホームの蒸気機関車は、ほとんど真っ黒だったのである。
 この教訓は、明るさに応じた露出を自分の勘で決めることに生かされた。それに、モノクロームのネガフィルムは、多少の露出の違いは引き伸ばしでカバーできた。この「露出の勘」は、後に露出計つきのカメラを持ってからも、雪のときなどに役立ったのだから、苦労はするものだと思う。
 困ったのは、動作不良。シャッターの羽根が動かずに、シャッターを切ったつもりでも羽根が開いていない、ということが何度もあった。その都度修理に出したのだが、気がつかずに使って、現像したネガを見て悲鳴を上げたこともある。また、ピントが合わなくなって、ネガの全部がボケてしまったこともあった。なぜか、現像後の悲鳴は八高線に集中していたのだが。
 そんなカメラでも、新しい一眼レフカメラを買う余裕のない我が家のぼくにとっては、貴重な戦力だった。コニカVA。今となっては懐かしい重さである。
 
     上野駅のC57もコニカVAで撮った。

 東海道本線を撮る

 そのコニカVAが3月後半に具合が悪くなった。せっかくの高校入学前の春休みなので、知り合いのカメラ屋にハーフサイズのコンパクトカメラを借りて、東海道本線の写真を撮りに出かけたのだが、なんとも使いにくいし、でき上がった写真のピントも悪い。コンパクトカメラは鉄道写真には使えないと実感した。
 翌週、コニカVAが治ってきたので、喜び勇んで再挑戦した。場所は、保土ヶ谷―戸塚間である。今は東戸塚駅があるのだが、当時は10キロメートル近い駅間。それでも、2万5千分の一地形図を頼りに、ハイキングスタイルで保土ヶ谷から歩き始めた。保土ヶ谷には湘南電車が停まらないので、もちろん東京駅から横須賀線である。
 すでにご承知と思うが、ぼくは「SLファン」ではない。「SL」という呼び方も、なるべくしたくない。まして「SLマニア」などとマスコミや一般の人たちに言われるのは我慢できない。ぼくは、都電、地下鉄、そして国電に囲まれて育ち、蒸気機関車にまで幅を広げた「鉄道ファン」である。だから、千葉の蒸機に感激した次は、電気機関車の引く特急列車を目ざしたのである。
 1969年4月6日、保土ヶ谷駅に降り立ったぼくは、地図を頼りに東海道本線の線路近くの道を戸塚方へと歩いた。住宅地から丘陵へと移るあたりで、道路から土手を上がって線路端に出た。「柵がないところは入ってもいいだろう」という簡単な理屈である。線路端には人間も歩ける幅の「犬走り」があり、そこから一歩下がって列車の通過を見送れば危険はないという判断である。(今同じ場所で同じことをしたら運転士が防護無線を発報すると思うので、若い読者はまねをしないでください。)
 その犬走りを歩いていると、貨物列車がやって来た。一歩下がって退避したのだが、東海道本線の貨物列車は、速くて長かった。轟音と振動で恐ろしくなったが、ひたすら耐えた。40両以上連結されていたのではないだろうか。
 何本か写真を撮り、保土ヶ谷トンネルの手前から、切り通しにかかる斜面を登り、地図にある小道をたどる。考えてみれば、このときが地形図を撮影に利用した初めての日だったのだが、もともと地図大好き人間なので、ワクワクはしたが不安なく戸塚側に出ることができた。
 この日の収穫は、EF65型500番台けん引の「みずほ」やEF58の客車列車、それにEH10などの貨物列車も撮影できて、大満足。さらに、戸塚駅行きのバスが撮影ポイントの近くから出ているのを見つけて、大助かり。余勢を駆って相模線のディーゼルカーにまで足を伸ばした充実した一日となった。


 東海道貨物線を走るEH10型電気機関車。黒い車体に黄色の帯。
                        保土ヶ谷―戸塚  1969.4.6



    保土ヶ谷トンネルへ向かう下り旅客列車。機関車はもちろんEF58。


                   EF65 508号機が引く寝台特急「さくら」

 定期券の喜び

 都立小石川高校は、都電20番の千石一丁目電停のすぐそばにある。ぼくは入学式の日に高校の事務室で通学証明書をもらい、帰りに大塚電車営業所(16番の営業所だが、自宅にはここが近かった)で江戸川橋から千石一丁目までの通学定期券を買った。生まれて初めて手にした定期券である。都電とともに、ぼくの高校生活が始まった。毎日の通学が楽しくてたまらなかったことは、言うまでもない。ぼくの鉄道世界が、また広がったのだ。

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