高校生は東北を目ざす

 都電通学

 
            ぼくが毎日乗った都電20番。 音羽二丁目付近 

 1969年4月、都立小石川高校に入学したぼくは、江戸川橋から千石一丁目(旧・駕籠町)までの通学定期を買った。
 都電を利用したぼくの通学時間は、徒歩の時間も含めて20分から25分。だが、実は、ぼくの家から高校までは歩いても30分あまりで行けるのである。自転車だと、坂道があるが、15分もかからずに着いてしまう。それでも、ぼくにとって都電通学は、まったくあたりまえの選択だった。

 鉄道研究同好会

 都電で通う小石川高校には、何と、「鉄研」があった。生まれてから15年の間、同じ趣味を持つ仲間にあえていなかったぼくは、学校案内を見て大感激して、その最初の活動日に部長のいるクラスを訪ね、入部を申し込んだ。
 小石川高校の「鉄研」は、しかし人数が少なかった。クラブの要件を満たす人数がいないため、生徒会の予算配分がない「同好会」。3年生部員はたしか2人で、2年生が1人。あとは「幽霊部員」だったと記憶している。
 最初にあいさつに行った日、この先輩に巣鴨駅前の純喫茶(たしか、「白鳥」だか「スワン」だったような記憶)に連れて行かれて、しばらく話をしたのだが、鉄道関係の内容は覚えていない。先輩の一人が、「うちのクラスの女の子が失恋しちゃって、授業中もずっと泣きっぱなしだったんだけど、慰める声もかけられなかった」と言ったことだけを妙に覚えている。 「鉄研」の1年生部員は、何と、ぼくだけ。3年生は受験のために「引退」するので、これでは活動もままならない。せっかく高校に入ったのだから、ほかのこともやってみようと考えた。

   
             高校の教室前の廊下の窓から都電が見えた。

 野球部
 ぼくが通った文京区立第五中学校には野球部がなかった。あまりに狭い校庭で、しかも舗装までされていた。
 小学校のときから野球が好きで、クラスのチーム(当時だからもちろん指導者のいない自主的なチームである)では「6番セカンド」、隣のクラスとの対抗戦もしていたぼくは、バレーボールやバスケットボールをする気にならず、(何と)ブラスバンド部に入っていた。当時のブラバンは男子のほうが多く、ぼくはユーホニウムを吹いていた。そして、中学校のクラスの軟式野球チームで、ぼくは「2番キャッチャー」を務めていた。
 小石川高校には、軟式野球部があった。練習風景をそっと眺めていて、何とかぼくでもやれそうだと思い、入部した。
 ところが、これが甘かった。そもそも走るのが得意でないぼくには、野球部の練習は地獄のようにきつかった。それでも、何とか歯を食いしばってついて行った。これが強豪校の野球部ならセレクションでとっくに落とされていたのだろうが、幸い(?)1年生部員は9人いなかったので、ぼくはクビにはならなかったのだ。
 しかし、野球部にはもう一つの「誤算」があった。それは、夏休みもほとんど練習があることだった。
 中学校では文化系、それもあまり活発ではなかった部活なので、夏休みの練習は1週間くらいしかなかった。ところがこの野球部は、(あたりまえのことだが)練習の夏休みが1週間で、あとは練習と合宿の日々が待っていたのである。
 ぼくは、夏休みに東北への旅を予定している。ところが、その期間は野球部の練習もある。どっちを取るかと言えば、結論は明らかだ。ぼくは6月の終わり、野球部のキャプテンに、意を決して、旅行期間中の練習の欠席を願い出た。
 キャプテンは、まったくあきれ果てたという顔で、ぼくの申し出に「再考」を求めた。それはそうだ。いくら、「もうすぐ蒸気機関車がなくなってしまうから」などという理由をつけても、高校野球部の練習を1週間以上も休もうとするなんて、トンデモナイ1年生なのである。でも、ぼくは野球部をやめたくはなかった。撮影旅行にも行きたかった。
 悩みながら練習をしていた7月初め、ぼくは練習のあとで、喉の奥に押さえ込まれるような圧迫感を覚えた。それは波状的にやって来る。帰宅してすぐに医者に行って診察を受けた。ぼくは喉の病気だと思っていたら、心電図をとった医者がぼくに言った。
 「これは冠動脈不全だね。心臓だよ。薬を出すけど、しばらくは運動禁止だ。」
 その病名は初めて聞いたのだが、「運動禁止」を言い渡されたぼくは、ショックよりもうれしさが湧き出してきた。「少なくとも夏休み中は運動をしてはいけないよ」と言う医者に、「運動」とは、体育や部活のような、心臓に負担をかけるもののことで、ふつうの生活はしてもいいと聞いて、これは天の助けだとぼくは思ったのである。
 診断書を持って野球部のキャプテンのところへ行くと、キャプテンは苦笑して言った。
 「旅行に行って、いい空気を吸って治すんだな。」
 「ありがとうございます」と大きな声で言って部室をあとにしたぼくの目の前には、北国の青い空が浮かんでいた。 

 田舎は8620の花輪線

   

 ぼくの父方の田舎は秋田県鹿角市花輪にある。田舎から叔父や叔母が働きに出てきたり、親類が東京見物に来たり、秋にはリンゴの木箱が送られてきたりしていて、ぼくにとって「花輪」は「遠い憧れの地」としてあった。
 1959年、幼稚園の夏休みに、ぼくは父に連れられて初めて「花輪」を訪れた。上野駅から夜行の普通列車に乗って、途中、岩手県一関の知人の家に寄り、盛岡から花輪線のディーゼルカーに乗った。ディーゼルカーはずいぶん混んでいて、しかもどんどん山の中に入って行くので心細くなったことなどを覚えている。
 小学校に入り、時刻表を眺めるようになってからは、東北本線や花輪線などのページをめくって、急行列車の名前を読んで思いを馳せていた。しかし、この時代、遠い北国への旅は、暮らしにあまり余裕のない我が家の子どもにとって、いつか実現させたい将来の夢でしかなかったのである。
 中学生になったぼくは、「花輪」への旅のために、小遣いを少しずつ貯金し始めた。まだ給食がなかった中学校には出入りのパン屋が昼の注文を取りに来ていて、ぼくは母が作る弁当の回数をなるべく減らしてパン代を現金でもらうように心がけた。そして、安いパンを買い、差額を貯めたのである。お年玉もお遣いの駄賃も、郵便局に少しずつ貯めこんでいた。
 中学3年生の秋、初めて鉄道雑誌に出会ったとき、東北本線の全線電化の記事を見た。廃車になる蒸気機関車の群れは、ぼくの心を大きく揺さぶった。そしてもう一つの衝撃は、花輪線が、蒸気機関車8620型の三重連で有名な撮影地になっているということだった。 だから、東北均一周遊券を使った高校1年生の夏休みの東北旅行は、このときまでのぼくの人生最大のイベントだったのである。

 東北へ

 1969年7月19日の夜、ぼくは父に見送られて、上野駅から東北本線盛岡行き夜行急行「いわて4号」に乗った。これまでホームから眺めていた455系電車のクリームとローズピンクの車内に入ると、胸が高鳴った。列車が上野を発車すると、今度は一人旅の緊張が加わる。大宮を出て、車内の明かりが薄暗くなっても、なかなか寝つけなかった。
 黒磯で停車したとき、明かりが消えて一瞬の静寂。そして再びコンプレッサーの音が聞こえて明かりがつく。発車すると、暗い構内に深紅の交流電気機関車の姿が浮かび上がった。東北の地に足を踏み入れる実感が湧いてきた。
 早朝の仙台駅で「いわて4号」を降り、仙山線に乗り換える。この日の泊まりは宮城県細倉(現・栗駒市)の叔父の家なのだが、まっすぐにはもちろん行かないのだ。
 仙山線のキハ26、山形から奥羽本線の上野発青森行き421列車(機関車はDD51)を乗り継ぎ、新庄へ。ここからは陸羽東線724列車。牽引するのははC58型50号機である。安い駅弁の稲荷寿司を買って先頭のオハフ61に乗り込んだぼくは、新庄発車の汽笛の音に胸を躍らせた。
 列車がドラフトを響かせて峠を登っている間、ぼくはガラ空きの車内やデッキをあちこち歩き回って、蒸気機関車の旅を楽しんでいた。
 思いがけなかったのは、峠を越え、大崎平野に出た川渡駅。なんと、構内に停まっていたもう1両のC58が、上り本線に移動して、ぼくの列車の前にゆっくりと近づいてくる。そして、ここまで単機でやって来たC58の前に、ガシャンと連結されたのだ。ぼくはここから終点の小牛田まで、蒸気機関車の重連の汽笛合図を満喫したのだった。
 小牛田から石越、そして栗原電鉄の小さな電車で、終点の細倉に着くと、駅に叔父が迎えに来てくれていた。
 翌日、細倉鉱山と中尊寺を叔父に案内してもらい、平泉駅で叔父と別れて上野発弘前行きのディーゼル急行「みちのく」に乗り込んだ。いよいよ花輪線である。
 龍ヶ森の千分の33の急勾配をゆっくりと登るキハ58のエンジンの音に、ぼくはここまでの長い道のりを思い起こしていた。
 「……やっと、やっとここまで来たんだ!」

   
             花輪線龍ヶ森を登る急行「みちのく」。  1969.7.21

 「東北への長い旅の始まり」につづく
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