写真部の「鉄」
高校1年の2学期が始まったころ、学校の階段下の倉庫を使った写真部の暗室の扉が開いていたので、何気なしにのぞいてびっくりした。一人の部員が4つ切りほどに大きく伸ばした白黒の写真が、疾走するEF57形電気機関車だったのだ。
ぼくはすぐにその部員に声をかけた。同じ1年生の、二つとなりのクラスの男子で、もちろん鉄道ファン。今で言う「撮り鉄」なので、鉄研ではなく写真部を選んだとのこと。また、同じクラスにもう一人「鉄」がいるという。
このとき、小石川高校鉄道研究同好会に、1年生部員はぼくだけ。これは誘わない手はない。ちょうどぼくは野球部を退部してワンゲルに移ったころで、時間的にも余裕ができていたので、この日から足しげく通って声をかけ、彼とその友人、そしてもう一人の1年生を鉄研のメンバーとして迎えることができた。
この写真部の「鉄」、T君と知り合ったおかげで、ぼくも自分で写真の引き伸ばしをしたくなってきた。資金の関係から、2年の夏の上野駅でのバイトの給料が入るのを待ち、彼にアドバイスを受けて、「ラッキー60M」という小型の引き伸ばし機むと、バットやポリタンクなどの用具をとりそろえ、自宅の自分の部屋を暗室にできるように、黒の模造紙なども用意した。
この「自室暗室」、昼間はどうしても外の光が入ってしまうために、夕方近くから準備を始めて、暗くなるころに引き伸ばしを始め、深夜まで延々と作業を続ける。だから母親には不評だったが、若いころに写真を少し習ったことのある父親は、できあがった写真の批評をして喜んでいた。
撮影会と合宿

東海道本線第2列車「さくら」。 EF65512(東)が先頭に立っていた。現在の東戸塚駅付近である。風景はまったく変わってしまった。
1970.4.26 保土ヶ谷―戸塚
1970年4月、高校2年生になったぼくは、増えた仲間といっしょに、本格的な鉄研の活動を始めた。まず、新入部員の勧誘。入ってきた1年生は2人だけだったが、「新入生歓迎撮影会」と称して、4月の日曜日に東海道本線の保土ヶ谷―戸塚へ。1人だけの3年生の先輩も来てくれて、賑やかな会になった。
5月は、田端機関区の見学。これは機関区に以前から出入りしていたの「写真部」のT君が事前に連絡してくれ、機関区の職員が一番よい位置いたEF57のパンタを上げてくれるサービスつき。EB10は現役で、「三河島事故」のD51364も、シートに被われて留置されていた。

子どもたちが遊ぶ向こうに、D51364が置かれていた。三河島事故は1962年。この8年前のことである。 1970.5.1 田端機関区

まだ現役だったEB10。走行写真は撮っていません。1970.5.1 田端機関区
夏休みには、旧型国電とED17、18、19、26が活躍していた飯田線への合宿。このとき、まだ長野県泰阜村への電話は直通ではなく、それを知らなかったぼくたちが学校近くの公衆電話から宿の予約をしようとしても、相手の局の交換士の声が聞こえるだけで、こっちからの声は向こうに通じなかった。家に帰って自宅から電話をかけたら、交換士と話ができて、無事に先方とつないでもらえた。
新宿を夜行急行「アルプス10号」で出発して、辰野で夜明けの飯田線に乗り換えた。この1ヶ月前にワンゲルの合宿で同じコースを伊那北まで来ているが、飯田線はぼくにとって未知の世界。合宿先を飯田線にしたのは、T君が旧型電機ファンだったためだが、ぼくは外国製の古い電気機関車もさることながら、横須賀色に塗り分けられた旧型国電に感激してしまった。

半径140mのカーブをゆっくりと走る上諏訪行き。このころは前サボも入っていた。先頭はクハ68。 1970.8.22 田切―伊那福岡

天竜川狭窄部を走る区間にはED18が活躍していた。
1970.8.22 唐笠―門島

当時の飯田線の「顔」、ED17と「流電」クモハ52との出会い。
1970.8.23 三河東郷
合宿1日目は田切のカーブで午前中を過ごし、午後は天竜川の谷間の門島へ。田切あたりの開けた景色と打って変わった峡谷に驚きながら、ED18の写真を撮った。
宿泊は温田の旅館。電話は温田のユースホステルにかけたのだが、都合で休業しているとのことで、近くの旅館を紹介してくれたのだ。旅館の窓からは天竜の流れと岸にへばりつくような家々が見渡せた。
2日目はさらに南の、城西の鉄橋へ。ここから豊橋までは、当時の飯田線の顔であるクモハ52に乗ることができてうれしかった。豊橋からは東京まで東海道本線を80系普通電車で延々6時間。「ウワーン」というモーターのうなりと、開け放した窓からの風、そして、小田原を過ぎたあたりから、運転士が何度も停車位置をオーバーランしてバックしたことが印象に残っている。きっと、113系よりもブレーキの効きが悪かったのだろう。
さて、鉄研の活動には顧問の教師は登場しない。高校のサークル活動なので当然のことながら顧問の教師の存在が必要なのだが、4月の始めに「今年もよろしくお願いします」と職員室にあいさつに行くだけで、あとは自分たちだけで計画・実行していた。ワンゲルのほうは、登山という性格上、山行には顧問の教師やOBがいっしょに来てくれたのだが、鉄研は「放し飼い」の状態で何も問題は起きなかった。今はそんなことができるのだろうか。
文化祭
都立小石川高校では、文化祭のことを「創作展」と呼んでいた。「創作展」の前後に体育祭と芸能祭があり、9月末から10月の初めにかけては授業がまったくない「行事週間」。ぼくは体育祭には野球のキャッチャーという出番があり、創作展には鉄研として参加した。(芸能祭は、演劇部や英研、ジャズ研、落研などの出番)
その創作展に、EF57けん引の東北本線普通列車の追跡ルポを発表しようということになった。その列車は上野11時17分発の一ノ関行きで、田端機関区のEF57が尾久から客車を上野まで推進して来る。部員で撮影ポイントの分担を決め、ぼくは推進運転の回送列車が通過する鶯谷のホームで待ち構えていた。
国電にじゃまされずに無事に回送列車を撮影して上野駅のホームに行くと、田端機関区の出区を撮影したはずのTくんが先に来ている。
「あれっ? どうしたの?」
不思議な顔をしてたずねたぼくに、T君が笑って答えた。
「そのまま機関車に乗せてきてもらったんだ。」
何と言うことか。彼は機関区から、客車を連結して推進運転して来たEF57形2号電気機関車の運転室に、機関区の助役といっしょに上野まで乗ってきていたのである。ああ、何と言うぜいたく! ぼくは悔しがったが、後の祭り。しかたなく、運転席に座って記念写真を撮ってもらったのだった。
創作展当日は、展示が終われば模擬店以外は暇である。そこで鉄研は校庭でデモンストレーションを敢行することにした。それは、タブレットの受け渡しである。
創作展の展示物の中に、タブレットキャリアがあった。これは針金とテープ、ボール紙で作った偽物なのだが、これを、自転車を列車に見立てて、ホーム(ただの校庭)に凛々しく立つ駅長(高校の制服がブレザーにネクタイなので、帽子を被ればそれっぽくなる)の腕に、走りながら引っ掛けるのである。またその逆に、駅長の持つタブレットキャリアに走りながら腕を通して受け取るのである。
代わりばんこにこのシーンを演じるぼくたちは、無邪気に喜んではしゃいでいたのだが、それを見ていた他の生徒たちの顔が冷ややかだっただろうことは想像に難くない。

タブレットを受器に引っ掛けて通過する成田線(我孫子線)826列車。機関車はDE10である。 1970.9.5 東我孫子
都電廃止反対運動
ぼくは都電で高校に通っていた。
ぼくの生家は都電通りに囲まれていた。文京区小日向の家の南側には15番(高田馬場駅―茅場町)、39番(早稲田―厩橋)、東から北側には16番(大塚駅―錦糸町駅)、17番(池袋駅―数寄屋橋)、西側には20番(江戸川橋―須田町)が走っていた。
このうち、17番は1967年の銀座の都電廃止によって池袋駅―文京区役所前の運行になり、15番と39番は1968年に廃止されている。だから、ぼくが高校に入ったときには、16番と短縮された17番、そして20番が身近な都電だったわけである。
ぼくは20番の、江戸川橋から千石一丁目までの定期券を買っていた。朝は自宅から音羽一丁目まで歩いて都電を待ち、帰りは千石一丁目から、そのときの気分によって江戸川橋まで乗ったり音羽一丁目で降りたり、または16番、17番との交差点である大塚三丁目で降りて歩いて帰ることもあった。20番には護国寺から17番の路線に入って池袋駅に行く電車がときどきあり、そのときは大塚三丁目で降りることになった。大塚三丁目の角には写真屋があって、そこが小石川鉄研の「御用達」的存在になっていた。
この都電との日々も長くは続かないことを、もちろんぼくもわかっていた。休みの日には、自転車に乗って都電通りを走り回り、その姿をカメラに収めていた。
1970年の創作展が終わったころ、東京都交通局は、都電16、17、19、20、22の各系統を1971年3月に廃止することを発表。いよいよそのときがやってきたのである。
ぼくはこのころすでに、都電を廃止するのは交通政策として誤りだと考えていた。公共交通機関である都電が、自家用車が増えたことを理由に廃止されるなんて、とんでもないことだと思っていたのである。だが、現実の政策は車社会を肯定し、路面電車の駆逐へと進んでいた。ぼくはそれが悔しかった。
時代は70年安保である。ぼくの高校も、前年に学園紛争を経験している。安保条約反対のデモに、ぼくは何度も出かけている。そのぼくが、一番身近な都電が廃止されようとしているときに、ただ写真を撮るだけでいいのだろうか。
ぼくは「都電廃止反対運動」を起こすことにした。もちろん、ささやかである。鉄研の仲間と相談して、生徒たち向けのビラを作って配り、アンケートを実施して、「廃止反対」が圧倒的多数という結果を得て、それを有楽町の東京都交通局まで持って行き、担当者に申し入れをした。また、「都電廃止反対」と大書きした立て看板を作って、都電からも見える校舎の壁に立てかけた。
もちろん、こんなことで都の方針が覆るはずはなく、1971年3月17日の最後の日を迎えてしまった。ぼくは悔しくて悲しくてしかたがなかった。「いつか絶対に都電復活の日を勝ち取るぞ」という悲壮な決意で、ぼくは最後の電車を見送った。そして、代替バスを拒否し、残りの1年間は歩いて高校に通ったのである。

都電20番の最終日。ぼくは悔し涙で見送った。
1971.3.17 大塚三丁目―千石三丁目
2006年春、ぼくは富山ライトレールの軌道が埋め込まれた富山駅北口にいた。新しい路面電車の新しいレールを眺めていたら、35年前の都電のことが思い出されて、景色が涙でにじんでしまった。今、「都電復活の日」が、少しだけ近づいたのではないだろうか。
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