入試会場に響いた

                        
D51の汽笛

  
   雄物川橋梁をわたるD51。   1972.5.       新屋―羽後牛島

 「6・3・3・1・4制」ハンタイ!
 都立小石川高校は、不思議な学校だった。
 入学時に9クラスに分けられた1年生は、そのまま卒業するまでクラス替えがなかった。ぼくは「G組」だったので、1年G組、2年G組、3年G組と、同じ仲間、そして同じ担任といっしょに進級した。このためクラスの結束は固く、また、体育祭では「G組」の1、2、3年生が同じチームで他のクラスと競うので、とても盛り上がった。
 そして、この高校には「受験指導」がほとんど存在しなかった。生徒たちは、それぞれが受験情報誌などを参考に目標を決め、自分で、またクラスの仲間たちと情報交換をしながら受験勉強を続けた。だから現役での大学合格者は少なく、生徒たちの間では、「6・3・3・1.4制」(「1」は予備校)という言葉が交わされていた。
 だが、これはぼくにとってはとんでもないことだった。蒸気機関車終焉間近のこのとき、1年間の浪人生活など、絶対に考えられない。取り返しのつかない一生の悔いが残ってしまう。1971年4月に高校3年生となったぼくには、現役合格の道しかなかったのである。 

 「地理学科」には「数V」が必須
 中学1年生のときから、ぼくは、教師になりたいと思っていた。そのきっかけは、そのときの担任教師である。東京教育大学地理学科を卒業したというその人は、授業のときにしばしば、旅に出た先でのできごとを話してくれた。それも、「静岡鉄道(軽便鉄道)に乗ったときに、飛び降りても走って追いつくくらい遅かった」とか、「生命を保証せずと書かれた切符で専用鉄道に乗った」という類の話で、もともと社会科、地理、地図が大好きだったぼくは、この先生の大ファンになってしまったのである。
 小学校6年生のときから視力が落ちて眼鏡をかけるようになり、鉄道運転士への道をあきらめかけていたぼくにとって、「社会科の教師」という新たな希望が開けたのだ。だから、地理学を勉強できて教員免許が取得できるというのが、大学を選ぶ前提条件だった。
 また、家の経済事情から、ぼくは国立大学への進学を求められていた。当時の国立大学の授業料は月額千円。私立大学とは圧倒的な差があった。
 そしてぼくは、東京を離れて暮らしたかった。「田舎」への憧れと、親から離れてみたいという願望が重なっていた。
 地理学を専攻できる大学を探すと、私立大学では人文学部など文科系の学部に地理学科があるのだが、国立大学では地理は理学部に属している。教育学部(教員養成系)でも、地理学を専攻できる大学が多い。
 問題は、ぼくの受験学力である。ぼくは数学が大の苦手で、高校では何度も「赤点」をとっている。そのぼくが、理学部受験に必須の「数V」で成績を上げられるのだろうか。
 それでも、とりあえず3年生では選択科目になっている「数V」をしかたなく受講することにして、ぼくの受験生活が始まったのだった。 
   
     入試1年前の羽越本線。 1971.3.28 五十川―小波渡
 
「0点」体験
 ぼくの「数V」は、あまりにも劇的だった。1学期の「微分積分」のテストで、ぼくは生まれて初めての「0点」をとってしまったのである。もう、ため息ばかり。旺文社の模擬試験でも、「数V」は0点に近い成績しかとることができない。だから、理学部地理学科の合格確率も「0パーセント」に近い。それでも他の教科の成績はまともなので、教育養成学部の社会科専攻なら、「99パーセント」のほうに近いので、安心した。
 ぼくが「数V」をあきらめなかったのは、「確立・統計」の成績だけが異常によかったからである。何しろ、高校のテストでは初めて100点をとったくらいなのだ。どうして同じ「数V」なのにと思ったが、頭の構造は変えようがない。
 この「0点」の経験は、ぼくが小学校の教師になってから生きた。ぼくが子どもたちのテストの採点をして返したとき、成績の悪い子どもの一人がぼくに尋ねた。
 「先生、0点って、とったことある?」
 ぼくは自信を持って答えた。
 「あるよ。高校の算数(数学)で、0点をとった。」
 とたんに子どもたちが元気になった。
 「先生でも0点をとるんだ」
と、子どもたちに不思議な親近感をもたれてしまったのである。

 D51に会うために
 さて、受験する大学の選択である。ここで最後の選択基準が浮上する。それはもちろん、蒸気機関車が走っていることである。この基準だと北海道がベストだが、土地勘はないし、青森から青函連絡船で渡るのは、やはり遠すぎる。だから高校時代に通った東北地方が、ぼくの選択エリアとなった。
 東北には仙台に東北大学があり、地理学科もあるのだが、ぼくの数学の成績では「まぐれ当たり」しか望めない。そこで、各県にある大学の教員養成学部に眼を移すと、秋田大学に行けば、ぼくが入学してから半年間だけだが、羽越本線のD51に街の中で会うことができる。五能線の8620にも日帰りが可能だ。電化された奥羽北線やDL化されている北上線など、他の撮影地にも近い。そして、市内には叔父の家族も住んでいるので、ぼくの両親も安心する。教育学部(現・教育文化学部)のほかに鉱山学部(現・工学資源学部)と医学部がまとまっているので、大学らしい雰囲気も味わえそうだ。
 そんなわけで、ぼくは秋田大学を志望校に選んだ。小石川高校の受験指導は、担任との一度の面接だけで、ぼくが「秋田大学教育学部を受けます」と言うと、担任は、「ユニークだね、がんばれよ。」と笑っただけだった。
     
  羽越本線で活躍していたC57の1号機。27年後に山口線で再会した。
                   1970.8.2  府屋―勝木 

 受験にはザックを背負って
 1972年3月、ぼくは受験旅行に出かけた。
 当時の国立大学は1期校と2期校に分かれていた。秋田大学は2期校であり、1期校の入試日より20日遅い。そこで、1期校の東北大学をまず受験することにした。合格の見込みはほとんどないが、せっかくの機会だし、これまでの旅行と違って旅費は親から出してもらえるので、行かない手はない。
 受験旅行でも、旅行は旅行。仙台での宿泊はユースホステル、いでたちは、これまでの撮影旅行と同じく、キスリングザックに登山靴である(皮革の短靴をザックに入れてはいたが)。もちろんカメラを持ち、1問も解けなかった数学に、さっぱりとあきらめて、仙台市電と仙石線の写真を撮って松島のユースホステルに泊まり、仙台発上野行きの普通列車に揺られてのんびりと帰ってきた。
 秋田大学の受験も、同じ格好で出かけた。今度の切符は東北ワイド周遊券である。この時期、すでに「秋田男鹿ミニ周遊券」が発売されていたが、せっかくの旅行機会にただ往復するわけにはいかない。
 往路は東北本線の夜行急行「あづま2号」を夜明け前の福島で下り、朝一番の奥羽本線の普通列車で、のんびりと大曲まで。長い停車時間の駅では、このとき集めていた入場券を買うのも忘れなかった。大曲から田沢湖線に入って、田沢湖ユースホステルに泊まる。
 翌日は入試の前日である。大曲から乗った秋田行きの普通列車は、一つ手前の四ツ小屋駅で、信号故障のために1時間ほど待たされてしまったが、ぼくはカメラを首にかけて、楽しい時間を過ごしてしまった。昼頃に秋田に着き、煙の匂いに深呼吸して、大学の構内を下見する。宿泊は、ユースホステル八橋青年の家である。
   
 四ツ小屋で待たされている間に、相撲が始まった。3月22日、入試前日である。
D51の汽笛
 1日目の試験科目は無難に終わり、2日目は、数学だけ。模擬試験のこれまでの成績と1日目の手ごたえからして、数学は1問だけでも解ければ、合格できると踏んでいた。数Uまでの文科系の数学なので、落ち着いて取り組めば大丈夫だろう。
 その1問が、解けた。大きく息をついたぼくの耳に、聞きなれた汽笛の音が響いてきた。そっと横に目を向けると、校舎の窓の外、家並みの向こうに、白い煙がたなびいていく。羽越本線の貨物列車を引くD51が、秋田操車場へ向けて最後の力行をしているのだ。ぼくは感激して体が熱くなった。気合を入れ直して残りの3問に取り組み、何と、全部答えを出してしまったのだ。合っていたかどうかは知らないが、とにかくこんなにできた数学は、今までになかった。
 
ぼくは意気揚揚と試験場を後にして、駅に預けていたキスリングザックを受け取り、奥羽本線の上りのディーゼルカー、キハ17のビニールシートに腰をおろした。この日は横手に泊まり、翌日は初めて北上線に乗って、陸中大石(現・ゆだ錦秋湖)でDD51重連の写真を撮った。さらに次の日は陸羽東線のC58を撮り、新庄からディーゼル急行「おが1号」で東京に帰ったのである。
 
自宅に戻ったぼくは、すぐに、秋田へ送る荷物の荷造りを始め、住民票を移す手続きをした。合格発表の前から引越しの用意をしているぼくに、親はあきれていたが、ぼくは「あの試験の『でき』で落ちたら、来年受ける大学がないよ。」と、すました顔をしていた。

 合格の第一報は、高校時代に何度も世話になった花輪の叔母さんからの、早朝の電話だった。地元の新聞に合格者の名前が載っていたのだとのこと。少し遅れて電報も着いた。
 1972年4月12日の夜、ぼくは上野駅から、友人に見送られて、羽越本線回りの急行「鳥海2号」で、新しい生活に向けて旅立った。それは、D51のいる、秋田の鉄道風景への旅立ちだった。
 
秋田での4年間は、あのときのD51がくれたのだと、今でもぼくは思っている。

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