上野駅の

    年末輸送に参加した

 
  EF5711(宇)が引く臨時急行9102列車。 1973.1.4 久喜―栗橋

高校生のぼくは、上野駅の助勤をして、国鉄から給料をもらっていた。
 上野駅がぼくたちアルバイトを雇うのは、帰省客輸送を円滑に行うためだ。この時期、上野駅は、正規の職員のほかに、岩倉高校の実習生や、ぼくたちアルバイト、他駅などからの応援の職員、鉄道公安職員や警視庁機動隊員などを総動員して、臨戦態勢で客扱いを行っていた。
 当時の列車の主力は、夜行の急行列車。国鉄は定期列車のほかに、全国各地から呼びの客車を帰省輸送用に借り集めてたくさんの臨時列車を編成し、何とか「積み残し」の客が出ないように、そして混雑のために事故が起きないように、知恵を絞って態勢を作っていた。

<帰省客を誘導する>
 「はつかり」に感動した翌日、今度は「誘導」という仕事についた。年末輸送のピークとなる12月29日のことだ。当時、帰省のピーク時には、上野発の長距離急行列車の自由席客を対象にして、1枚100円の「着席券」(整理券)が事前に発行されていた。列車が入線すると、まずこの着席券を持っている乗客を先に乗せ、そのあとで他の客を乗せるという方法である。これは増収のためと言うより、指定席の少ない急行列車に、自由席急行券を持つ客が何時間も前からホームにあふれることを避けるための手だてだった。したがって駅側では、着席券を持つ客とそうでない客に分けて整列させ、列車まで誘導する必要があった。「誘導」の係は、その仕事を受け持っていたのである。
 着席券を持つ客は、指定された時間までに、ホームではなく「団体待合所」という名の、高架ホームの下の薄暗い荷物用の通路に集合する。そしてその乗客たちを車両ごとの定員に区切り、その列車の入線時刻の少し前に、ホームに誘導する。そのとき、誘導係は1両ごとの列の先頭に、列車名と号車番号が書かれたプラカードを持って立ち、大きな荷物を抱えて続く乗客の列を従えて、ホームの乗車位置に導くのである。ホームには制服の公安職員が乗車口ごとに配置されていて、不正な割り込み客をシャットアウトする。まさに「厳戒態勢」である。
 
誘導係には、年末年始の上野駅の全列車の時刻や編成などが書かれた職員用の冊子が渡された。これを折り曲げてポケットに押し込み、誘導作業のダイヤごとにチームを組んで駅構内を動き回るのだ。

<急行401列車 「津軽1号」>
 団体待合所からホームに誘導して、乗車口に着席券の客が並んだころ、ホームの放送が列車の接近を告げる。
 「業務連絡、回送ヨンマルイチ(401)列車、トウゴ(15)番接近」。
 列の先頭にいるぼくの顔が緊張でこわばる。続く「奥羽本線回り青森行き急行津軽1号が入線します」のアナウンスに、並ぶ客たちは色めき立つ。「一列のままお待ちください」と、ぼくは乗客に声をかけ、整然とした列を確かめてから、視線を列車が入ってくる前方に移す。暗いポイントの向こうから、最後尾の客車のカマボコ型の輪郭が現れた。安全確認のための乗務員を乗せて、尾久の客車区から推進運転でやって来た列車は、ゆっくりと、行き止まり式のホームに停車した。
 「皆さん座れますので、押さないでください!」と大きく叫ぶぼくの声が耳に入らないように、あせった客が客車のステップをあわただしく上がって行く。列が全部車内に吸い込まれ、乗客が自分の席を確保してやっと笑顔を見せると、今度はその横に並んでいた「座れない客」を乗り込ませる。「デッキに止まらずに奥へ進んでください!」と声を枯らすが、不思議なもので、どうしてもデッキに居すわる客がいる。列が何とか車内に押し込まれるころには、狭いデッキは身動きが取れなくなる。ぼくたち誘導係は閉まっている客席の窓の外から、大きな動作で、立ち客を車両の真ん中に動かそうとするのだが、一度自分の場所を決めてしまった客は、なかなか動こうとしない。もうこれまでというところで、ぼくはデッキの手動式のドアをやっとの思いで閉める。デッキの客に安堵の表情が浮かぶ。


<最後の手段>
 発車まであと数分。しかし、まだ「津軽1号」に乗ろうとする客がホームにやって来て、ぼくたちに「乗せてくれ」と言う。ぼくたちは、まだ余裕がありそうなデッキを探して、もう一度ドアを、中の客を押しのけるようにこじ開けて詰め込む。しかし、客車のドアは内側に開ける構造なので、中の客が動いてくれなければ開けることができない。
 もう限界だと思ったとき、小走りに駆け寄ってきたGパンの若い女性が、「何とか乗せてください。どうしてもこの列車で帰りたいんです」と、ぼくと仲間たちに迫った。迫ると言うより、哀願する表情である。一瞬考えたぼくたちは、「窓から入れよう」と決めた。ぼくは、車両の真ん中あたりの、通路に隙間があるところの窓を叩いて、中の客に開けてもらい、「ここから乗ってください」とその女性に言って、まず、中の客に彼女の大きな荷物を受け取らせ、窓枠に手をかけた彼女の足を支えて中に押し込んだ。座席の客も、いやな顔もせずに協力してくれた。彼女を無事に積み込んだぼくたちは、中の客に「すみませんでした」と礼を言い、彼女はぼくたちと周りの客に頭を下げた。
 
再び閉まった窓の外で、ぼくたちが顔を見合わせて、「スカートだったら乗れなかったな」と笑ったとき、発車のベルが鳴った。長いベルのあと、出発合図のブザーが聞こえ、EF57型電気機関車のかん高いホイッスルとともに、「津軽1号」はガタンと動き出した。
 
ゆっくりと滑り出す客車の窓の中では、満員の客がそれぞれに笑顔を浮かべている。座席でもう酒盛りを始めている人たちもいる。直立して列車を見送るぼくたちの目の前を、赤いテールランプが流れて行く。その赤が次第に小さくなったとき、ぼくたちは「ヨシッ」と声をかけて、次の列車の客が待つ待合所に向かって歩き出した。一番の難関、急行401列車「津軽1号」を定時に送り出したぼくたちの足取りは、心なしか軽かった。
 
          荷41列車を引くEF56。  1973.1.4  久喜―栗橋
<初めての改札>
 1970年1月1日、晴れ。雑煮とおせち料理を気ぜわしく食べたぼくは、高校の制服を着て、午前9時過ぎに家を出た。地下鉄丸ノ内線の茗荷谷から池袋へ出て、国電の改札口で臨時職員用の乗車証明書を見せて山手線に乗る。この日は、初めての、改札の仕事だった。
 午前10時。日勤のアルバイトの配置先を決めるとき、ぼくが、「改札はまだやったことがないんですけど……」と担当の助役に遠慮がちに話したら、ちょっと驚いたような顔をされたが、「じゃあ、公園口に行ってくれ」と指示された。高架ホームから階段を上った通路の西、上野公園に面した公園口は、一番乗降客が少ない。ぼくは1人で公園口の改札事務室に行き、「おはようございます、助勤に来ました」とあいさつした。
 アルバイトの改札の仕事は、入口で乗客のきっぷにハサミを入れること。今は自動改札か、ホチキス型のスタンプ式になっているが、少し前までは、どこの鉄道でも、改札口では駅員がハサミ(これを「パンチ」という)で切符に切れ込みを入れていた。あの、「カチャカチャ……」という音が、駅の改札口の独特な雰囲気を作っていたのである。
 さて、初体験のぼくは、まず事務室でパンチの使い方を教わった。ちょうどペンチを縦に持つような感じで、親指と人差し指で鉄製のパンチをはさみ、中指と薬指で下側の握りを上下させ、前のかみ合わせに切符を差し込んで刻みを入れるのだが、これが実にむずかしい。メモ用紙をゆっくりと切る練習をしたのだが、ちょっとスピードを上げると、もう手の中でパンチが踊ってしまう。少し練習しただけで、手が痛くなってしまった。
 10時30分。いよいよぼくが改札口のラッチ(あの囲いの中)に入る時間になった。練習に使っていたパンチをそのまま持って改札口に行き、駅員と交替してラッチの扉を閉めると、深呼吸するまもなく、客が切符をぼくの前に差し出す。ぼくはそれを左手で受け取り、かみ合わせの部分に挟んで、右手の中指と薬指を曲げると、「パチン」という音とともに、切符にM字型の切れ込みが入った。立ち止まって待っている客にその切符を渡したとき、ぼくの手はもう汗ばんでいた。
 改札口に立つ時間は、1回30分。時間が来ると交替して事務室で休息できるのだが、最初の30分は気が遠くなるほど長かった。元日の公園口の利用客はまばらで、客がぞろぞろと続いてくるわけではなく、インターバルがあるのだが、それでも数人のグループがまとまって来ると、もうこっちは必死である。何しろこのときの公園口の入口には、ぼくしか駅員がいないのだから、責任は重大。たまに定期券の客が来ると、ホッとした。交代の駅員が来てようやくラッチを出たぼくは、全身汗びっしょりになっていた。
 
事務室に戻って手を洗っているとき、ぼくは右手の人差し指に小さな血豆ができているのに気がついた。知らないうちにパンチのかみ合わせのところに挟んでしまったのだろう。ぼくの手を見た駅員が、「最初はだれでも血豆を作るんだよ」と言って、やさしく笑った。

<血豆の「駄賃」>
 この日、ぼくは18時の勤務終了までに、8回、改札口に立った。最後の立ち番が終わったとき、指の血豆は親指と中指も合わせて、大小5個に増えていた。いつも軽快な「カチャカチャ」の音を聞くだけだった改札の仕事がこんなに重労働だとは、思ってもいなかった。もちろんぼくの未熟さにその原因があったのだけれど……。家に帰る電車の中で、ぼくは右手の指をそっと隠し続けていた。
 その数日後に庶務課で受け取った、年末からの助勤の給料袋の中身は、1日分多かった。給料をぼくに渡してくれた庶務係長にたずねたら、元日の勤務は2日分に計算するとのこと。ぼくは喜んでお礼を言いながら、この1日分はぼくの右手の血豆にくれたのだと、密かに思ったのである。

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