上野駅アルバイト駅員の

         仕事と生活

 
     到着した夜行列車から郵袋を運ぶ。  1974.8.13  上野

 食事は職員食堂で
 1969年、高校1年生の冬休みに初めてアルバイト駅員を経験したあと、ぼくは続けて、1月と2月の週末に、何回かホーム配置の助勤をした。スキーシーズンの臨時列車の運転に合わせたもので、15時から翌朝10時までの泊まりの勤務。泊まりと言っても、労働基準法で高校生の深夜勤務は認められていないので、2日に分けての勤務として扱われていた。もちろん、寝る時間と寝る場所、そして夕食と朝食の時間は確保されていた。
 職員の食事は、ホーム事務室の場合は、ふつう、4人の勤務者の分をまとめて自炊する方式がほとんどだった。事務室にはガス台と流しのついた休憩室と、2段ベッドの寝台がついている。駅員の勤務は、朝の8時から翌朝の8時までの24時間勤務がほとんどなので、この事務室が生活の場所でもあるわけだ。
 ぼくたち助勤者は、この炊事の仲間には入れないので、食事は仕事の合間をぬって各自で食べることになっていた。その時間はどこへ行ってもよかったのだが、短い時間で安く食べられるところがあった。それは職員食堂。広小路口の地下にあるその食堂へは、薄暗い職員通路を通って行く。そして扉を開けると、少し大きめの大衆食堂の雰囲気。初めは気がつかなかったのだが、この職員食堂は「あきやま食堂」という一般客向けの食堂の一部を仕切って設けられていた。垣間見る向こう側では、旅行客が食事をとっている。こちら側はもちろん豪華ではないが、何より安いし、一品のおかずを選ぶこともできるのが楽しかった。(この食堂は今はない。)

 駅前旅館に泊まったことも
 さて、ぼくたち助勤者が寝たところである。ホーム配置のときには、ホーム事務室のベッドが空いていれば、そこに寝かせてもらえた。このベッドが、鉄道ファンであるぼくにとっては最高のロケーションなのだが、そううまくはなかなかいかず、上野駅旅客課の奥にあるベッドルーム(1段だが、何となく、兵舎か収容所の雰囲気)で寝ることが多かった。
 改札の泊まりのときにもここで寝たが、誘導係になると、10人ほどのチームで行動するため、駅にはなかなか泊まれず、正面口を出て少し歩いた駅前旅館に行って、チームごとに部屋に入れられた。夜更けに高校生の集団がドヤドヤと(それでも静粛に)旅館の階段を上がって座敷に入り、押入れから布団を出して敷く風景は、不思議な修学旅行みたいだった。このとき泊まっていた旅館が、井伏鱒二の小説「駅前旅館」のモデルになった「まつのや旅館」だということを、ぼくはずっとあとで知った。(この「まつのや旅館」も、すでに廃業している。)
 翌朝は、前夜の仕事の終わった時間によって、6時、または7時からの仕事になった。勤務は10時までだから、朝の仕事は気分もはつらつ、続々と到着する夜行列車を眺めながらの幸せな時間だった。

 中央改札の楽しみ
 高校2年、1970年の夏休み、東北撮影旅行から戻ったぼくは次の旅行費用をためるために、また上野駅で働いた。このときは、ほとんどが改札。もうあまり血豆を作ることはなく、器用にパンチを操るようになっていた。
 
改札口の仕事で一番楽しいのは、やはり地平ホームに面した中央改札口だった。ここを通る客はほとんどが長距離客で、ぼくに差し出す切符の行き先も種類も様々。それに国電の客と違って、せかせかしていない人が多いので、ぼくは切符を確かめる動作をしながら、その客の行き先の風景を頭に浮かべて楽しんでいた。
 中央改札には、もう一つの仕事があった。それは、出発列車の案内板の架け替えである。 今はみんな電光掲示になっているが、当時、中央改札の上には、ワイヤーに、列車の発車時刻とホームが書かれた木の板(プラスチックもあった)が吊り下げられていた。客の切れ目をぬって、となりの仲間(やはり高校生)と声をかけ合い、発車した列車の案内板をはずし、開いたスペースに、まだ掛けてない列車の板を掲げるのだ。これが何とも楽しく、ウキウキする作業だった。
 
さて、30分交替で事務室に戻ると、そこでの仕事はない。休憩室には客が車内に残していった週刊誌などが置いてあって、それを読んでいてもいいのだが、8時間勤務のうちの4時間をそれに使うのはもったいない。そこでぼくは、高校の夏休みの宿題を持って行くことにした。30分である程度進められて、時間で打ち切っても30分後にその続きをすぐ始められるものは、英語の翻訳だった。この年、ヘミングウェイの「老人と海」を授業でやっていて、範囲を決めた日本語訳の宿題が出ていた。夏休みの前半をワンゲルの合宿と東北旅行に使ったために、宿題の消化が遅れていたこのとき、改札の仕事は、ぼくに思いがけない福音をもたらしたのである。
  
  寝台急行「新星」が到着、たくさんの乗客が降りてきた。 1974.8.13 上野

 サボ交換は職人芸
 高校2年の冬も、上野駅で働いた。鉄道が好きな同級生の1人をアルバイトに誘って、充実した楽しい日々を過ごしたのである。この冬は、ホーム配置が多かった。
 列車ホームの仕事できつかったのは、「サボ交換」。「サボ」とは、サイドボードの略で、列車の側面に取り付けられた、長細い行先表示板のことである。現在では、運転席のスイッチ一つで動く「あんどん式」の方向幕を経て、発光ダイオード(LED)が主流になっているが、このころは駅員が車両の両数分の鉄製・ホーロー引きの板を腕に抱えて運び、1両ごとに取り替えなければならなかった。
 たとえば11両編成の普通電車や急行電車の場合、2人がホーム側と反対側に分かれて、それぞれ11枚の鉄板を抱えての作業となる。軍手をはめ、左の脇にサボを抱えるのだが、これがズシリと重たい。留置線から回送されて来た車両で、サボ受けに前の運用のサボが入っていない場合には、1枚入れるごとに軽くなっていくし、入っているサボを裏返すだけなら手ぶらで歩けるのだが、入っているサボを回収して自分が持っていったサボを入れるときは、ホーム事務室を出てから戻るまで、ずっと11枚の鉄板の重さに耐えなければならないので大変だった。
 サボをサボ受けから抜くときには、やはり技術がいる。客車のサボ受けは窓の下にあるので楽なのだが、電車やディーゼルカーのサボ受けは窓の上にある。手を伸ばして引き抜くのだが、サボには取っ手がないので、すんなりとは抜けない。初めのうちはだいぶてこずっていたのだが、ホーム配置の若い駅員(サボ交換は一番若い駅員の仕事)の手際は実にみごとだった。まず、サボ受けに入っているサボを、軍手をはめた手で差込口の方向にバンとたたいて、サボの端をサボ受けの口から少し出し、スッと引き抜いてわきの下に挟む。そして、新しいサボの端をを差込口に斜めに引っかけて、「ガシャン!」と気持ちのいい音をたててサボ受けに収めるのである。日本刀の居合といえば少し大げさだが、その片鱗を感じさせる職人芸である。ぼくはとてもそこまで腕は上がらなかったが、それでもサボ係の駅員の動作を少しゆっくりにしたくらいの域に達することができた。
 サボ交換は、きつかったけれど楽しかった。これから出発する列車の準備作業に自分が直接加わっていると思うだけで満足感があったし、自分の作業を、列車を待つ乗客に見つめられていることに、不思議な快感を覚えた。

 ドアを開ける、閉める
 ホームと反対側のサボの交換には、もう一つの楽しみがあった。列車によっても違ったが、反対側のドアを開けなければ作業ができないので、自分でドアの操作をすることがあったのだ。到着した電車の車掌が反対側のドアを開けてから車掌区に行った場合には、作業のあとで、ぼくが乗務員室のドアスイッチを押してドアを閉める。反対側のドアが閉まっている場合には、1両ずつ、ドアの非常コックを操作してドアを手で開け、サボを取り替えてから、もう一度コックを操作してドアを閉めるのだ。乗客のときにはできないこの操作をするときのぼくは、顔はまじめだったけれど、心の中はニコニコ笑っていた。
 常磐線国電ホーム(当時は9・10番線)に配置になったときには、「前サボ」の交換もした。常磐線にはまだ旧型の茶色い72系が使われていたので、先頭車の正面には行先の書かれた四角いホーロー引きの鉄板が、前サボ受けに何枚も入っていて、到着したときには「上野」の表示が一番前に出ていたのを、「松戸」や「取手」のサボと入れ替えるのだ。この作業をするには、片手で車端の手すりをつかんで片足を大きく前に出して、サボ受けの下の板にかけ、もう一方の手で重い鉄板を持ち上げる。はじめは線路に落ちそうで怖かったが、慣れるとこれもなかなか味のある作業だった。

 今は思い出の仕事ばかり
 ぼくが高校時代に上野駅でアルバイト駅員としてこなしていた仕事の多くは、今、駅員の仕事ではなくなっている。
 
ぼくが血豆を作った改札のパンチは、ホチキス型のスタンプに変わり、そして改札口は自動化された。列車のサボは、多くがLEDの方向幕になり、乗務員室のスイッチ操作で変えられる。ホーム掃除も、下請けの作業員の仕事になった。乗客の安全を守るための列車監視は、収入に直接結びつかないためか、削減されてしまった。最近では、駅員ではなく警備会社の警備員がホームで列車監視をしている光景をよく見る。
 
上野駅では、ぼくのような一般の高校生のアルバイト駅員の募集を、ぼくが高校を卒業した年に、取りやめた。ぼくのような経験は、それ以後は、したくてもできなかったのだ。だから、ぼくの上野駅での経験は、幸運に恵まれた貴重な体験、ということになる。
 ある日、撮影旅行から「こまち」で東京に戻ってきたぼくは、ふと思い立って、上野駅の地下深い新幹線ホームに降り、エスカレーターを乗り継いで、地平ホームに出た。当時の面影をまだ少し残している地平ホームの入口に、石川啄木の歌碑を見つけた。ぼくは、思わず足を止めて、その傍らに立った。
 
上野駅で働いた日々から、もう40年近い月日が流れている。でも、ぼくの目には、16番線ホームをさっそうと歩く、高校生のぼくの姿が浮かんで見えた。

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