イワナ汁の失敗
   


 その1
 五月の昭和村は、芽吹きの季節を迎えていた。土曜日に入った沢で、一応の釣果を上げたぼくとUさんは、翌日のイワナ汁に入れるコゴミを収穫して、充実した気分で宿に戻って来た。
 渓での朝は、ずっと前から、イワナ汁と決めている。昭和館で作ってくれる朝の弁当は、いつもとてもおいしいのだが、ぼくたちはその弁当に加えて、イワナ汁を作るのである。
 イワナ汁の作り方は、至って簡単。イワナをブツ切りにして味噌汁の具にする、と言うだけのものだ。しかし、いくらイワナ汁でもイワナだけでは物足りない。そこで、他の具を現地調達することになる。春なら、先に書いたカタクリや、コゴミ、アサツキなど、夏や秋口にはウルイ、ミズナ、それにキノコ類などがイワナと一緒にコッヘル(山用アルミ製手鍋)に入れられる。
 イワナが一番おいしいのは真夏である。実が充実し、脂がしっかり乗ったイワナは、味噌汁の表面に脂を浮かせる。春先は産卵や冬の疲れが残っていて、黒っぽく痩せているものが多い。こうしたイワナは食べてもあまりおいしくないので、ハリを飲んでいなければリリースすることにしている。
 五月に入ると、雪代も終り、彼らのエサとなる虫も出てくるので、食味も少しよくなるが、味噌汁の表面に脂を浮かせるまではいかない。だが、山菜と一緒に煮立てると、十分においしいイワナ汁になる。

 昭和村に、毎年五月にぼくたちが必ず入る沢がある。
 その沢は、入ってから二時間ほど釣り上る間は、ナラやカエデ、そしてブナの林に包まれている。原生林ではなく、人の手によってかつて伐採されている「二次林」だが、実に気持ちのいい沢なのだ。そしてイワナも、「天国」には遠いが、一応釣れる。
 「二次林」を抜けると、今度は一転して藪になる。それも、ぼくのホームグラウンドである東京・秋川のヤブ沢よりもずっときつい、究極のヤブなのだ。イワナがいても、まともにポイントに仕掛が入らないほどのメチャメチャのヤブなのだ。これは、かつて沢の水際まで木が伐採されたためで、ネマガリダケや灌木が沢に多い被さっている。あと一〇年以上はこの状態が続くだろう。だが、このヤブが、この沢のイワナを守っていると言える。この究極のヤブでイワナを釣ろうと思う人は、ごく少ないだろうし、釣っているぼくたちも、おそらくほとんどのイワナをただ逃がしているだけなのだから。
 このヤブを抜けると、こんどは疎らにブナやサワグルミがそびえ立つ急斜面になる。今の用語で「択伐(選択伐採)」がしばらく前に行われたようだ。灌木が多くて釣りにくいけれど、さっきの究極のヤブに比べれば天国である。
 五月の日曜日の夜明け、前日の疲れのまま眠っていたぼくとUさんは、二人とも、複雑怪奇な夢を見ているときに目覚ましのベルで起こされた。ぼくの夢にはUさんが、Uさんの夢にはぼくが登場していたのだが、詳細は書きたくない。いい夢ではなかったことだけは確かである。
 用意してもらっていた弁当を持って昭和館を出発、明るくなった村の景色の中をゆっくり楽しんで、その沢の入口に着いた。
 「コゴミは入れた?」と、ぼく。
 「入れたよ」と、Uさん。
 「そうだ、Uさんがコッヘルを持ってるんだから、ぼくのは置いて行こう。荷物は少しでも軽いほうがいいや。」 ぼくはそう言ってコッヘルをザックから出し、ガスコンロだけをザックに詰めた。
 少しのヤブこぎで沢に下りた。水は少なくはないが、去年の五月末の、まだ雪代をたっぷりと含んだ流れに比べると、歩きやすいものの、魚の出具合が心配になった。
 ともあれ、一年ぶりの素敵な渓に、気持ちが躍る。そしてUさんの第一投に、一八センチのイワナが躍った。
 薄曇りの空の下で、ブナの林は灰色の幹をしっとりと浮き立たせていた。ぼくたちは、「イワナ汁」「イワナ汁」と念仏をくり返しながら、ポイントに仕掛を振り込んだ。この二次林の中は、魚影はそれほど濃くないのだが、この朝、小型のリリースサイズに混じって、イワナ汁の具が数尾釣れた。これでイワナ汁は完璧である。
 二時間ほど釣り上がると、ブナの林が切れて究極のヤブになる。だからぼくたちの朝食はいつも、ヤブの少し手前の林の中でとることになっている。 「ここでイワナ汁にしようよ」
 ぼくはUさんに弾んだ声を掛け、ザックを岸に下ろした。Uさんもザックを置き、中からコッヘルを……。
 「アーッ! あれぇ!?」
 ガスコンロを出そうとしていたぼくの耳に、Uさんの悲痛な声が飛び込んで来た。振り向いたぼくに、衝撃的な言葉が浴びせられた。
 「コッヘルが入ってない!」
 ああ、美しい芽吹きのブナの林、春の息吹、コゴミ、そしてイワナ……。たった一つの欠けし物、それは鍋……。ああ、イワナ汁は夢の彼方の空遠く……。
 「しまった、確かめればよかった。きっと車の中だよ、ごめん!」
 打ちひしがれたUさんの前で、ぼくはあまりのショックに、笑い出してしまった。魔が差したのだ。いつも必ず自分のザックに入れているコッヘルを、このときだけ、Uさんのそれを当てにして置いてきたなんて……。
 かくして、この朝の食事は、昭和館特製の弁当と沢の水、となった。まだ悲痛な顔をしているUさんを冷たく眺めながら、ぼくは密かにほくそ笑んだ。これで、ぼくがかつてイワナ汁を一度に三回もひっくり返した失敗が、帳消しになったのだ。ムフフ。 そしてぼくは決意した。いかなる場合でも、ガスコンロとコッヘルは自分のザックに入れておくことを。 
   
 その2
 さて、Uさんのコッヘル忘れを書いた手前、ぼくも「一度に三回」のことを告白しなければならない。やはり昭和村の、別の沢に入ったときのことである。

 昭和村の渓での朝飯は、昭和館のボリュームたっぷりの弁当と、イワナ汁。五月末の渓には味噌汁の具がいっぱいある。このときはタケノコ(小さなネマガリダケ)とウドを釣りがてらに少しいただいて、イワナがある程度釣れて気持ちが落ち着いたころに食事の時間にした。調理は内山さんのほうが手際がいいので、ぼくはコンロを組み立てて火を点け、水を入れたコッヘルを載せてぼんやり待つ。沸騰してきたらぶつ切りのイワナを入れ、山菜を入れる。そして頃合を見て味噌を加えて溶かし込む。
 この、山菜を入れるときに事件が起きた。ふとしたはずみでぼくの左手がコッヘルの取っ手に引っ掛かってしまい、コッヘルがコンロから滑落したのである。「わぁっ」と叫んだぼくの目の前で、コッヘルの中身が半分ほど水中に没してしまった。幸い流れのゆるいところだったので、あわてて中身を回収したが、数切れのイワナと山菜は流れていってしまった。「あーあ」と顔をしかめる内山さんに、「ごめんごめん、もう一度水を足してやり直すよ」と言って、再度コッヘルをコンロに掛けた。
 インスタント味噌汁の、一人分ずつになっている味噌の袋の口を破こうとしたときに、また事件が起きた。勢い余ったぼくの左肘がコッヘルに衝突し、コンロともども横倒しになってしまった。またまたイワナと山菜の半分は水中へ。「もう、何やってんだよ」とあきれる内山さんの視線を避けながら、ぼくはまたイワナたちを水中から助け出した。(手遅れのモノもあったが……。)
 「今度こそマジメにやるぞ!」と気合いと水を入れて沸騰させる。そして無事に味噌の袋の口を切り、味噌を押し出して箸でかき回したとき、三度目の事件が起きた。ぼくの箸がコッヘルの縁に引っ掛かってしまったのである。イワナと山菜に加えて味噌の一部も、………。「大穂さん、きょうはどうかしてるんじゃないの!?」と語気を強める内山さんだが、ぼくに思い当たる悩みごとはない。ぼくは仕方なく笑いこけて、「こんなこと初めてだ、本のネタができたよ」と言いながら、遭難した具の救助活動にいそしんだ。
 四度目の事件は、起こらなかった。本のネタにはなったが、イワナと山菜の味はすべて水に流れてしまった。
 ぼくがイワナ汁をひっくり返したのは、過去から現在まで、このときの三回だけである。……本当です。信じてください。

    
 その3
 今度の失敗は、ごく最近のことである。舞台はやはり奥会津・昭和村。まったく、ぼくたちは昭和村に失敗をしに通っているようなものなのである。

 この年の昭和村には、ぼくとUさんに加えて、Uさんの友人のOさんが初めて参加した。天気はよく、イワナもそれなりに釣れた。3人が合流して朝食の準備をしたとき、それぞれのビクには数尾ずつのイワナが収まっていた。Uさんが山菜とイワナをナイフで切って、コッヘルに入れる。ぼくはガスコンロに火をつける。おいしい弁当とおいしいイワナ汁は、もう目前にあった。
 「味噌を入れてよ。」
 コッヘルが煮立ってきたとき、Uさんがぼくに言った。
 「そうだ、味噌、味噌……!」
 ザックを探ったぼくの顔が引きつった。いや、ぼくはそれを見ることができないのだから、たぶん引きつったのだと思う。
 「しまった、ゴミといっしょに捨てちゃった!」
 何と言うことだ。昨日の朝のイワナ汁に使ったインスタント味噌汁の味噌の残りを、昨日の朝の弁当殻といっしょに袋に入れていたのだが、それをそのまま宿のゴミ箱に入れてしまったのである。
 「エーッ、そんな!?」
 Uさんが悲痛な顔になった。Oさんはポカンと口をあけてしまった。
 「ごめん、ごめん!」
と、ぼくはひたすら謝ったが、それで味噌が出てくるわけではない。
 「ほかの調味料は、そう、塩はないかね。」
 Uさんが聞いたが、だれも味噌以外の調味料を持ち合わせてはいなかった。
 「じゃあ、イワナの出汁だけで食べるしかないな。」
 そう言ってUさんはため息をついた。
 責任者のぼくとしては、これは最初に味見をするしかない。いつものステンレスのカップに具と汁を入れて、「イワナ汁」を一口すすってみた。
 「うん、コゴミの味がよくわかっていいよ、なかなかいける。」
 ぼくはひたすら笑顔を作って、おいしそうに食べた。2人をごまかすと言うよりも、自分もごまかさなければならないと言う悲痛な笑顔である。その笑顔につられてか、Oさんも、
 「うん、なかなかいけるよ。」
と相槌を打ってくれた。
 「まあ、まあ、食べられないわけじゃないな。」
 Uさんもしかたなさそうにうなづいた。かくして、前代未聞の「味噌のないイワナの味噌汁」が渓の歴史に名を残したのである。
 弁当のほうはもちろんおいしかった。だが、「イワナ汁」は、冷めてくるとしだいに水っぽさが気になってきた。ぼくは、2人に悟られないように、急いでカップの中のコゴミやイワナを胃袋に収めたのだった。
 
  これが初めての「味噌のないイワナの味噌汁」。
               
              おいしそうな顔を作る私。半ばヤケッパチの笑顔である。

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