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これらの写真の特徴は、私が選んでいるのではなく、私が預けたCDの中から、「駅の記憶」のスタッフが選んでいることです。他人の目で選ばれた自分の写真を改めて見直す、という作業は、今までになかったことで、私の毎月の楽しみになっています。 このページでは、2006年2月からの1年間に使われた写真を紹介します。 別れの時間(とき) 1972.5.25 奥羽本線 秋田 発車のベルが鳴り終わった。「ドアが閉まります」というアナウンスに続いて、ホーム助役の緑の旗が振られた。「ゴゴン」という鈍い音を立てて、ディーゼル急行のドアが閉まる。 開いた窓の内と外で、別れを惜しむ人たちが手と手を握り合っていた。エンジンがうなりを上げ、窓はゆっくりと動き出し、列車とホームの人たちを引き離して行く。 列車を見送った人たちは、紫煙の残るホームを、気を取り直したようにゆっくりと歩いていった。 春の日差し 1976.3.9 大畑線 田名部 下北半島、むつ市の田名部駅に大畑線のディーゼルカーが到着した。編成は、郵便荷物合造車のキハユニ26と、寒冷地用のキハ22。 ローカル線の郵便、荷物輸送には、専用の車両ではなく、半分が客室になっている合造車が多く使われていた。東北地方では、このキハユニ26型がその主力。ぼくはこの車両が気に入っていて、よく選んで乗っていた。ただし、冬は車内が寒く、後ろのキハ22型の暖かい車内でまどろんでいたのだが。 大畑線は、国鉄分割民営化のときに廃止対象となり、地元のバス会社、下北交通が経営を引き受けていたが、2001年に廃止された。2006年7月に下北を訪れたとき、バス道路を外れたところにかつての踏切があり、草の茂った線路にさびたレールがそのまま残されているのを見つけた。ぼくは何ともやるせない思いでため息をついた。 2006.7.2 大畑線踏切跡 無人駅に降りる 1974.3.17 奥羽本線 北金岡 1971年、奥羽本線秋田―青森間が電化された。蒸気機関車D51やC61が消え、真紅の電気機関車ED75が客車や貨物を引くようになった。 しかし、変わったのはそれだけではなかった。それまでどの駅にもいた駅員が、信号システムの集中化によって減らされ、たくさんの新たな無人駅が出現した。それまで改札口で駅員に渡していた切符は、ホームで車掌に渡すようになった。 車掌は、列車が駅に着くと、改札口近くで降りてくる乗客を待って、切符を受け取る。切符を持たない客からはその場で運賃を収受する。そして、乗降終了を確認し、携帯無線で機関士に発車の指示を出す。 「こちら442列車車掌、442列車機関士どうぞ」 「こちら442列車機関士」 「442列車、発車」 機関紙はピィーッという甲高いホイッスルを鳴らし、客車の連結器がガタンと音を立てる。列車はまた一つずつ、駅を刻んで行く。 見送りのお供 1972.5.25 秋田 ディーゼル急行に子どもたちがたくさん乗っている。この日は平日なので、修学旅行に出かけるのだろう。両親の見送りを受けている子もいた。父親はカメラを構えているが、いっしょに連れてこられたらしい弟は、退屈そうに、別のほうを向いている。 急行型ディーゼルカーのキハ58系には、修学旅行用に作られたグループがあった。番号は800番台で、車体の色がクリームではなく黄色に塗られているので、すぐに見分けがついた。車内も、洗面台がステンレスになっているなど、ふつうのキハ58系とは少し違っていた。修学旅行シーズンには専用列車として運転されるのだが、シーズンオフには他のキハ58系に混ざって使われ、年末年始の臨時列車や増結車として見かけることが多かった。乗り合わせると、ちょっとうきうきした思い出がある。 ローカル線の駅で 1972.10.28 陸羽東線 池月 ローカル線には無人駅が多かったが、どれも、単線の線路の横にホームを造っただけの「生まれながらの無人駅」で、上下の列車が交換できる駅には必ず駅員がいた。乗客の少ない駅では、駅員の仕事は出札や改札よりも列車への運行指示が主で、信号やポイントは駅員の操作で転換されていた。 東北本線小牛田と奥羽本線新庄を結ぶ陸羽東線にも、交換駅には必ず駅員がいた。このときの陸羽東線は「連査閉塞方式」で、タブレットの受け渡しはないものの、隣の交換駅と連絡をして信号やポイントをスイッチで切り替えていた。 列車の接近警報がなると、当務駅長はホームに出て列車を出迎え、列車の停止を確認して、対向列車との交換がなければ時刻を見て出発合図をし、交換がある場合は、駅の事務室に戻って対向列車用の信号を切り替える。そうした動作は実にきびきびとしていて、安全運行への信念を感じさせてくれた。 駅弁を買う 1972.5.25 奥羽本線 秋田 駅弁は、今ではコンコースやホームの売店か、車内販売から買うものだが、かつては駅に停車したときに列車の窓から手を出して売り子を呼んで買い求めた。 写真は秋田駅の風景だが、売り子は折りたたみ式の脚立に駅弁が詰まれたケースを載せている。長距離列車が入ってくると、脚立を建物の壁に寄せてベルトを肩にかけて、「べんとう、べんとうー」と声を上げて売り歩く。 当時、窓の開かない列車は本数の少ない特急列車だけ。急行列車や普通列車はすべて窓が開いたので、停車時間が長ければ、客は自分の座席で売り子を待った。秋田駅は日本海縦貫線の拠点駅なので、どの列車も停車時間が十分あり、駅弁もたくさん売れていた。 津軽中里にて 1976.3.10 津軽鉄道 津軽中里 ストーブ列車で有名な津軽鉄道だが、現在は観光用に運転されていて、ふつうの列車には「走れメロス号」と名づけられた新しい軽快気動車が使われている。この写真の車両は「キハ24」と書かれているが、国鉄の初期の気動車キハ10系と同じタイプで、2段になった窓が特徴だ。上の窓は固定式で「明かりとり」といったところ。鉄道ファンの間では、このような窓を「バス窓」と呼んでいる。 この列車、最後部には貨車が連結されている。後姿の駅長はタブレットキャリアを肩にかけている。ホームは低く、未舗装。 ふつう、乗客の降りる姿を撮影するときには、改札口に近いドアから先に下りて、降りてきた客の前から撮るのだが、このときは改札口の位置を勘違いしていたため、後姿ばかりになってしまったのが残念だ。 秋の休日 1973.10.10 釜石線 上有住 列車の窓が開くということは、窓を開けて写真を撮ることができるということ。ぼくはよくこのようなアングルで写真を撮っている。 釜石線上有住は、釜石線が遠野盆地から陸中海岸に向かう仙人峠越えの真ん中にある。遠野方の足ヶ瀬から南に迂回してトンネルを潜り、山の斜面に沿って回り込むと、ここ上有住の駅だ。列車はここから来たに向きを変えて再びいくつものトンネルを抜け、釜石鉱山のある陸中大橋へと下る。 上有住は、すぐそばに鍾乳洞「滝観洞(ろうかんどう)」を抱えている。そして釜石製鉄所で使う石灰石の積み出し駅としてあった。写真には右側に貨物用の線路が見えている。駅名票の横には、しゃれた水飲み場。かつて蒸気機関車だったころは、ここで顔を洗う人たちがたくさんいたことだろう。 この日は「体育の日」で、日の丸がはためいていた。当務駅長の発車合図は、旗ではなく、手を上げている。この列車は花巻行きで、トンネルを抜けて遠野盆地へと向かう。 小さな改札口 1973.6.17 奥羽本線 後三年 6月の日曜日、秋田から奥羽本線上りの一番列車で、秋田・山形県境に向かった。でも、一番列車は院内から仙台行きの急行「千秋1号」になってしまうので、目的地の釜淵駅には停まらない。そこで、歴史的な名前の後三年駅で降りて、次の列車を待つことにした。そのときに撮ったのが、この写真。 夏の制服を着た高校生が列車を降りてきた。ぼくは待合室の中からカメラを構えて、女の子の背中が改札口の開いたドアから出た瞬間にシャッターを押した。もう0.5秒遅くてもよかったかもしれないが、見てお分かりのように、すでに女の子の視線がぼくを見ているので、これがベストショットだっただろうと思っている。 後ろの客車は停車している列車ではなく、窓の1枚にブラインドが下りていることから、側線に留置されている車両のようだが、右のデッキのドアが開いていたので、よい雰囲気が出た。 駅員の、差し伸べた手もあたたかい。きっと笑顔で迎えているのだろう。ぼくの大好きな写真の一つである。 ホームに人があふれていた 1973.10.2 羽越本線 羽後本荘 圧倒される写真である。ホームにあふれるばかりの人の波。こんなに人が乗っていたのか、と驚くような写真である。 この日、秋田大学鉄道研究会では、秋休みの平日を利用して、矢島線(羽後本荘―羽後矢島。現・由利高原鉄道)の乗客実態調査を行っていた。深夜にバイクで秋田市を出発、矢島線の全列車(1編成だけが往復していた)に同乗して、駅ごとの乗降客数や乗客の特徴を把握しようという取り組みである。昼間は4時間近く列車間隔が開くので、本荘市内の喫茶店で休憩(昼寝)をしての強行軍だった。帰り道、バイクを運転しながら無性に眠かったことを覚えている。 その矢島線の朝の通勤通学列車が羽後本荘に着いたとき、ホームの反対側には羽越本線の上り普通列車が着いたばかりだった。所定時刻ではもっと早く着いているはずなのだが、この日は少し遅れていた。そのおかげで、こんなに人があふれているホームの写真を撮ることができた。跨線橋の階段を数段登ってから振り返りざまにシャッターを切ったのだが、今見ると、顔がみんなぼくを見ているようで、今さらながらよく撮ったと感心してしまう。 雪どけのころ 1973.3.22 阿仁合線 阿仁合 春浅い午後、ふもとの町へもどる貨物列車が、発車時刻を待っていた。山の村へ帰る子どもたちが、連れだって改札口を通ってきた。長い冬もようやく終わるころ。 阿仁合線(鷹ノ巣―比立内。現・秋田内陸縦貫鉄道)には、ローカル線用の小さな蒸気機関車C11型が使われていた。ぼくは阿仁の山里の風景に魅せられて、通い続けていた。 今、第三セクター鉄道として鷹巣―角館間を軽快気動車が走っているが、乗客の減少で厳しい状況に置かれている。ぼくは秋田内陸縦貫鉄道のサポーターとして、長期的な存続のために活動を続けている。 ここ数年、ようやく沿線風景の魅力を知る人が増え、旅行会社のツアーがたくさんこの線を利用するようになった。なんとか展望を切り開きたいと、ぼくの秋田通いはさらに続く。 写真の子どもたちが渡ったレールの上を、今、たくさんのツアー客が渡っていく。 2006.10.28 秋田内陸縦貫鉄道 阿仁合 客車の乗り降り 1973.6.17 奥羽本線 及位(のぞき) 奥羽本線の山形―秋田間は、電化区間に挟まれた非電化区間。山形以南は1968年までに、秋田以北の日本海縦貫線区間は1971年に電化されていたが、この区間では1975年12月の電化までは、DD51型ディーゼル機関車が主役だった。 ぼくの高校時代までは、D51の引く貨物列車もあったのだが、ぼくが秋田大学に入学した1972年4月には、横手機関区にD51が5両だけ残っていて、横手―秋田間の貨物列車1往復と、羽越本線(72年10月電化)の運用に当たっていただけだった。 DD51という、SLファンの目の仇のような機関車が、しかしぼくは不思議に気に入っていた。そして、羽越本線から蒸気機関車が消えてからは、奥羽本線のこの区間に、よく日帰りで出かけていた。ほかの鉄道ファンにまったく会わない撮影行は、とても楽しかった。(くわしくは、こちらへ) 秋田県と山形県の境にある雄勝峠(院内峠)の周辺は、山あいを走るローカル線の雰囲気だが、ディーゼル特急「つばさ」や、キハ58系のディーゼル急行が走り抜ける幹線で、普通列車はすべてが客車列車。その、米沢行きの上り428普通列車が、峠の駅・及位に着いた光景である。 客車は、車端部が絞り込まれたオハ35型で、乗客は低いホームからステップに足をかけ、もう1段上がって車内に入っていく。ドアは手動で、誰かが閉めなければ、走行中も全開。だが、デッキと客室を仕切るドアは、どの客もちゃんと閉めていた。 この日は、朝に後三年で高校生の女の子の写真(「小さな改札口」)を撮っている。日曜日の午前中で、客車には真室川か新庄へ出る人たちがたくさん乗り込んでいる。ぼくはこの駅で降りて、夕暮れまで一人で写真を撮っていた。まったく楽しい1日だった。 「駅の記憶」も1年経ちました。2年目の写真からは、どんな思い出が見えてくるのか楽しみです。ページを替えてご覧いただきます。NPO「駅の記憶」の皆さん、ありがとうございました。今後ともよろしくお願いいたします。 ホームページのトップにもどる 30年前の東北の写真をもっと見る(鉄道民俗学の世界へ) |