1969.7.23.龍ヶ森
ぼくの父の田舎は、秋田県鹿角市花輪である。
東京の我が家では、「花輪に行く」「花輪の叔父さん」などと、「花輪」が日常語になっていたのだが、ぼくが子どものときに「花輪」に行ったのは、幼稚園のときの一度だけ。それでも、鉄道の旅の記憶は、断片的に残っている。花輪線については、乗ったディーゼルカーが混んでいたことと、列車がどんどん山の中に入っていったことを覚えている。
秋田県といっても、鹿角地方は、元・南部領。駅の名前も「陸中花輪」だ。その陸中花輪へは、東北本線の盛岡から入る。花輪線は、小さいぼくにとって、田舎という憧れの世界へ通じる、特別な鉄路だったのだ。
ぼくが二度目に花輪を訪れたのは、高校1年生のとき。1969年の夏のことだ。その前年の秋、街の書店で初めて鉄道趣味の雑誌に接したぼくは、花輪線が蒸気機関車の有名撮影地であることを知り、高校入学後の最初の夏休みの旅行に、迷うことなく花輪を選んだのだ。
このときは花輪の伯母の家に泊まり、十和田湖や八幡平へも出かけたので、撮影地の龍ヶ森(現・安比高原)で過ごしたのは、1日だけだったが、蒸気機関車8620型が2両、3両の力を合わせて峠を上る情景に、ぼくは体がふるえるほど感動した。
花輪線には、この後、1970年3月、8月、そして1971年3月に訪れ、最後の活躍をする8620や、素晴らしい景色の中を走るディーゼルカーたちを撮り続けた。
1971年10月、花輪線無煙化。高校3年生になり、受験勉強をしていたぼくは、遥かな8620の煙と汽笛、そして龍ヶ森に響いたドラフトの音を思い出して、遠い空を見上げていた。
1969.7.23. 龍ヶ森−赤坂田
龍ヶ森を上る
花輪線は、東北本線盛岡と奥羽本線大館を結ぶローカル線だ。正式には、盛岡の4つ先の好摩から分岐するのだが、列車はみんな盛岡から直通する。
奥羽山脈を横切る花輪線には、龍ヶ森(現・安比高原)を頂点とする、千分の33(1,000m走る間に33m上る)の急坂がある。その急勾配を上る貨物列車は、大正生まれの蒸気機関車8620型の、前引き・後押しで運転されていた。ぼくが行く少し前までは、3両の8620が貨車の先頭につながる「三重連」の列車もあったそうだが、ぼくには、龍ヶ森の景色と8620には、前引き後押し運転のほうが似合っているように思えた。
前引き・後押しで龍ヶ森を上る。 龍ヶ森−赤坂田 1970.3.15
お山の中行く汽車ぽっぽ
ポッポッポッポッ黒い煙を吐き
シュッシュッシュッシュッ白い湯気噴いて
機関車と機関車が前引き後押し
なんだ坂こんな坂 なんだ坂こんな坂
・・・・・・
今はほとんど歌われることがない童謡「汽車」の、そのものの風景が、ここにあった。
ゆっくりと通り過ぎる貨車の列の後ろから、後補機の煙とドラフトの音が聞こえてきた。
1970.3.15. 龍ヶ森−赤坂田
龍ヶ森−赤坂田 1970.8.
龍ヶ森 1969.7.23.
重連で龍ヶ森を上る下り列車 1970.3.15. 岩手松尾−龍ヶ森
タブレットを受け取る盛岡行きディーゼルカー
早春の日差しを浴びて 赤坂田−龍ヶ森 1970.3.15.
前森山を背に (今は安比高原スキー場)
岩手松尾−龍ヶ森 1970.3.15.
2両の後補機が貨車を押し上げる 岩手松尾−龍ヶ森 1971.3.
米代川に沿って
田山−兄畑 1971.3.
龍ヶ森を越えた花輪線下り列車は、馬淵川の支流、安比川に沿って下り、荒屋新町に着く。荒屋新町には、小さな機関支区があって、8620がいつも数両、つかの間の休憩をとっていた。
荒屋新町は、まだ奥羽山脈の分水嶺の東側である。花輪線が太平洋側と日本海側を隔てる分水嶺を越えるのは、荒屋新町から西へ、千分の25の勾配を上ったトンネルの中だ。下りに変わった勾配で加速した列車がトンネルを出ると、寄り添う小さな沢は、米代川となって日本海に注ぐ。
田山、兄畑と下り、谷が深くなる湯瀬(現・湯瀬温泉)の手前で、列車は秋田県に入る。八幡平で鹿角盆地に出るまでに、列車は幾度も米代川を渡る。
今、この谷間には、東北自動車道が、花輪線のレールに覆い被さるように走っている。見ていて、とてもつらくなる光景である。最近、しばしば車で撮影に出かけているのだが、花輪線に沿った区間では、花輪線へのせめてもの義理立てに、東北自動車道を使わないようにしている。
雪代を流す米代川の岸辺を行く 1971.3.田山−兄畑
谷間にドラフトの音がこだまする 湯瀬−八幡平 1971.3.
上り列車が鹿角盆地から米代川の谷へ入って行く
湯瀬−八幡平 1971.3.
陸中花輪駅の構内で、次の仕事を待つ 1970.8.
夕方の荒屋新町行きの車窓から。
土深井−沢尻 1969.7.
ぼくが花輪線を訪れたときには、すでに龍ヶ森を越える列車は、すべてディーゼルカーになっていたが、荒屋新町と大館の間には、1往復の通勤列車が、8620型の牽引で残っていた。しかもその列車は、貨車も連結した「混合列車」だった。この写真には貨車は客車の後ろに連結されているので、写っていないが、とわだみなみで列車が方向転換すると、ぼくの乗っていたオハユニ61型客車と機関車の間に、数量の貨車が挟まった。
この日、ぼくは奥羽本線の矢立峠の撮影に行ったのだが、陸中花輪から大館までの往復に、この列車を利用した。十和田南では、機関車がターンテーブルで向きを変えるのを待ったり、かん高い8620の汽笛を十二分に味わうことができて、素晴らしい思い出となった。
8620の舞台として鉄道ファンに知られていた花輪線だが、大館機関区のC11が、陸中花輪までの一部の貨物列車に使われていた。ぼくも偶然出くわしてわかったのだが、妙に新鮮味を感じてしまった。
C11の引く上り貨物列車 1969.7. 陸中花輪−柴平
タブレットと腕木信号機
素晴らしい景色の中を、大正時代に製造された8620型蒸気機関車が走る花輪線。それだけでも魅力にあふれていたのだが、花輪線の魅力は、ほかにもあった。それは、タブレット閉塞と、腕木信号機だった。
「閉塞」とは、決められた1つの区間に、1本の列車しか入れないようにする鉄道の安全確保のための基本システム。現在では、新幹線をはじめ、
タブレットを受け取って龍ヶ森を通過する上り貨物列車 1970.3.16.
急行列車もタブレットを受け取って行く 1970.3.16.
ほとんどの線区が、自動信号による閉塞となり、1ヶ所の運転司令室からその線区のすべての信号を、コンピューターを使って操作している。しかし、かつては、多くの線区で、となりの駅との電話のやりとりを行い、通票(タブレット)を運転士に渡して、列車を出発させていた。年配の方なら、「ああ、あの、駅長が肩にかけていた、丸い輪か」と、思い当たるだろう。
その、人間同士の信頼を形にしたような、目に見える安全確保のシステムは、鉄道が大好きな人間たちの、写真の題材としても人気があった。
そして、駅の信号機。花輪線の駅の信号機は、駅員が大きな転轍機を「ガッチャン」と体を使って操作する、宮沢賢治の童話「シグナルとシグナレス」に出てくるような、腕木信号機だった。
タブレットも腕木信号機も、古い時代の鉄道の象徴で、花輪線が近代化されていなかったという証拠なのだが、ぼくを含めた多くの鉄道ファンにとっては、最高の舞台装置だったのである。
タブレットも腕木信号機も、蒸気機関車が消えた後の花輪線に、ずっと残っていた。そのことが、30年近い歳月を経て、ぼくを再び花輪線に通わせることになるのだが、それはもう少し後で書くことにする。
今もぼくの記憶にはっきりと残る8620の煙、そしてドラフトの音……。ぼくの心の故郷、国鉄花輪線である。