ああ 上野駅
 上野はぼくの 心の駅だ
          
 上野駅のトップスター、583系特急電車。青森から夜を徹して走ってきた、寝台特急「ゆうづる」である。  1969.3.2.

 カラオケでぼくが歌う歌の中で、一番好きな歌は、「ああ上野駅」である。
 「ああ上野駅」は、今から30年以上前のヒット曲で、最近でも上野駅が話題になるとこの曲が流れる、上野駅のテーマソングのような曲である。カラオケの老舗、第一興商の「ああ上野駅」の画面には、1960年ごろの集団就職列車の記録フィルムが登場し、ぼくは友人たちから半ばあきれられながら、陶酔した顔で、この歌を歌う。「上野はおいらの心の駅だ」と、津軽出身の歌手が歌ったが、ぼくにとっても、上野は「心の駅」なのである。
 ぼくの家は、父が秋田県鹿角郡花輪町(現・鹿角市)から東京に出てきたことから、東北とのつながりが日常的にあった。
 ぼくの幼児時代に、伯父や伯母が高校を出て東京近郊に就職したり、知り合いのお兄さんが修学旅行でやってきたり、毎年リンゴが送られてきたり、また、父の知人の娘さん(ぼくにとってはお姉さん)を家でしばらく預かっていたりしていたので、小さいぼくにとって、東北は、遠いけれど身近な存在としてあった。
 ぼくの、上野駅の最初の記憶は、5歳の夏(1959年)に、父に連れられて秋田に初めて行くときに、夜行列車を待ったホームのことだ。秋田と行っても、花輪へは、東北本線の盛岡から花輪線に乗り換えて行く。その東北本線の青森行き普通列車を、ぼくと父は、ずいぶん前からホームに並んで待っていた。青森行きの前に入線してきた高崎行きの列車に、停まる前から飛び乗った人がいたこと、青森行きが入ってきたときには割り込みをする人が多くて、結局ぼくたちは座席に座ることができなかったこと(小さいぼくは端っこに何とか座らせてもらったらしい)を覚えている。夜が明けたとき、列車の先頭には蒸気機関車がついていた。
 上野駅の次の記憶は、横浜の美容院に勤めていた伯母が里帰りするのを見送りに行ったとき。常磐線経由青森行きの急行「北斗」の座席指定車は列車の先頭についていて、その前には真っ黒な蒸気機関車がつながっていた。その機関車があんまり大きいので、ぼくはこわくて近寄ることができなかった。発車のベルがけたたましく鳴ると、ぼくは両耳を押さえた。ベルが止み、一瞬の間をおいて、ぼくのお腹を揺さぶるような汽笛の音が響いた。
ぼくは身を固くして目をつぶった。ぼくが目を開けたとき、伯母を乗せた夜行列車は、ゆっくりと動き出していた。タタン、タタン、というリズムがしだいに早くなったとき、父は、「さあ、帰ろう」と、ぼくに声をかけた。

 中学3年生になり、父のカメラを持って鉄道写真を撮り始めたときも、上野駅に通っていた。冬の朝、上野に着く夜行列車には、屋根やデッキに雪がいっぱい着いていて、ぼくはデッキのステップに凍りついた雪を、靴でコンコンと蹴りながら、遠い雪国に思いをはせていた。。上野駅では、1968年10月に完全電化された東北本線に登場した寝台特急電車583系、上越線の特急「とき」の181系などの電車や、EF57、EF58といった古株の電気機関車、それにそれに成田行きの客車を引いていた蒸気機関車C57など、被写体には事欠かなかった。ぼくは何時間も、時刻表を確かめながら、ホームからホームへと歩き回っていた。
 1969年、高校1年の夏、ぼくは生まれてから2度目の、そして一人では初めての東北旅行に旅立った。7月20日の夜、ぼくは上野発盛岡行きの夜行急行「いわて4号」に乗った。ホームまで見送ってくれた父に窓から手を振り、ゆっくりと加速しながら複雑なポイントを渡る455系急行電車の揺れを、ぼくは興奮した体全体で受け止めていた。
 ぼくと上野駅との関係を決定的にしたのは、高校時代のアルバイトだ。高校生のぼくは、上野駅で働き、日本国有鉄道から給料をもらっていたのである。そして、もらった給料は、ぼくの鉄道旅行の大切な資金になった。旅行先は、東北。上野を立ち、上野に帰る旅行がぼくの高校時代の節目であり、支えとしてあった。
 1972年、ぼくは秋田大学教育学部に入学した。すでに荷物を大学の寮に送っていたぼくは、また東北に撮影旅行に行くのと同じ格好で、羽越本線経由秋田行きの急行「鳥海2号」に乗り込んだ。見送りに着てくれた友人たちをホームに残して、列車はEF58のホイッスルとともに、ガタンと動き出した。翌朝目を覚ましたとき、左の車窓には明るい日本海が広がっていた。
 
 物心ついたときから青年時代まで、人生の節目のぼくの旅立ちは、いつも上野駅だった。「ああ上野駅」で井沢八郎が「就職列車に揺られて着いた」と歌ったように、上野駅に着いたところから新しい人生が始まったという人は多い。ぼくは、上野駅を列車で旅立つところから新しい人生を始めたのだが、そのぼくにとっても、「上野はおいらの心の駅」なのである。

 初めて国鉄で働いた日

 キハ82系時代の秋田行き特急「つばさ」。右は、常磐線の401系電車。 
    
 高校1年の夏休み後半のある日、ぼくは上野駅の不忍(しのばず)口近くの階段で、1枚の手書きのポスターを見つけて、思わず立ち止まった。それはアルバイト募集のポスターで、連絡先は上野駅庶務課、募集対象は高校生・大学生、仕事内容は「駅務」となっている。ぼくはびっくり仰天して、感激にふるえてしまった。これはまぎれもない、国鉄上野駅のアルバイト駅員募集のポスターである。
 それまでぼくは、国鉄が一般の高校生をアルバイトとして雇うということを知らなかった。朝のラッシュ時に大学生が「尻押し」のアルバイトをしていることは新聞で知っていたし、鉄道高校として知られる岩倉高校(上野駅のすぐそば)の生徒が「実習生」の腕章をつけて改札口に立っているのを見たことはあったが、それらはぼくのような一般の高校生には縁のないものだとばかり思っていたのだ。だから、このポスターの発見は、大変なできごとだった。ぼくはその足ですぐに上野駅庶務課へ向かった。
 すぐに、と言っても、「庶務課」の場所を知らないぼくは、まず、近くの改札の駅員にその場所を聞き、中央コンコースの広小路口寄りの「駅長事務室」の表示板のある階段を、胸をドキドキさせながら上った。そして『庶務課』と書かれたドアを開けて、中を見た。一番近くの席にいた職員に、「あのう、アルバイトのポスターを見て、来たんですけど……」と声をかけると、その職員は、「あの人のところで聞いて」と、奥の席で仕事をしている年配の職員を指差した。ぼくは椅子の間を通り抜けて、その人、庶務係長に声をかけた。
 係長の返事は、ぼくの張り詰めた気持ちを、一気に落胆させた。「申し訳ないけど、もう募集は終わっているんですよ」と、訛りのある、すまなそうな声が返ってきたのである。ぼくは、もっと早くポスターを見つけていればよかったと後悔したが、気を取り直してもう一度聞いてみた。
 「今度はいつ募集するんでしょうか?」
 すると係長は、
 「今年の暮れにはまた募集しますから、そのときにもう一度来なさいよ。」
と、やさしく言ってくれた。12月の始めに募集を始めるとのことなので、ぼくは、満を持してそのときを待つことにした。コンコースへの階段を下りるぼくの頭の中は、もう冬休みに飛んでいた。
 
 その年、1969年の12月初めに、ぼくは再び上野駅庶務課のドアを開けた。夏に来たときと同じ係長が笑顔でぼくを迎えてくれ、た。係長は、ぼくの名字を聞いて、「めずらしい名字だね」と言い、学校名を聞いて、「小石川高校の人は初めてだな」と言った。そしてアルバイトの勤務表を開いて、まだ空いている日程を教えてくれた。
 アルバイト学生の勤務時間は、15時から翌朝10時までの泊まりの勤務と、15時から
23時までの夜だけの勤務、それに10時から18時までの日勤の3種類で、ぼくが予定していた12月26日から31日までの間は、すでに泊まりと日勤はふさがっていた。そこで、15時から23時までの勤務を申し込み、「元日の日勤があるんだけど、やってくれるかね?」と聞かれて、ちょっと考えてから、「ハイ」と返事をした。これで、合計7日間の勤務が決まったわけである。
 アルバイトの仕事は、ホーム駅員の助勤、旅客の誘導、改札の3種類で、ぼくは元日だけ改札、あとの日は、残りの2つのどちらかを当日に決めると言う。ぼくは、よろしくお願いします」と頭を下げて、庶務課の部屋をあとにした。気分はもう、駅員。雲に上るような気持ちだった。
 このときのアルバイトの給料は、時給160円。いくら1969年でも、相場よりもだいぶ安い。だが、大好きな国鉄で、それもあこがれの上野駅で、駅員と同じ仕事をして、それで給料がもらえるなんて、ぼくにとっては天国そのものである。家に帰ってからも興奮しているぼくに、父は「遊びじゃなくて仕事なんだから、カメラなんか持っていくんじゃないぞ」とクギを刺し、母はあきれて、「血は争えないものね」と、ため息をついた。このとき東京電力に勤めていた父は、戦前は満鉄(南満州鉄道)の職員だったのである。

 いよいよ12月26日がやってきた。前日の終業式でぼくがもらってきた通知表の、数学の「赤点」に顔をしかめている親に知らんぷりをしたぼくは、高校の制服(紺のブレザーなので、そのまま駅員としても通用してしまう)iネクタイを締めて、意気揚々と上野駅に「出勤」した。
 アルバイト学生の集合場所は、駅の職員用会議室。岩倉高校の生徒と、これも上野駅の近くの千代田テレビ技術専門学校(当時)の学生に混じって、「その他」の高校生と大学生(これはラッシュの「尻押し」の常連が手伝いに来ていた雰囲気)が10人ぐらい。もちろん、ぼくの知った顔はいない。岩倉の生徒が改札に、千代田の学生が誘導にと職員に連れて行かれたあと、残ったぼくたちは各ホームに割り当てられることになった。高校1年生は、ぼく1人。しかもこの日が初めての勤務である。庶務係長はぼくに、「高架第2ホーム」を指示した。山の手外回りと京浜東北の南行が発着する3・4番線である。とまどっているぼくに、係長は、「ホームの事務室に行って、助役の指示を受ければいいんですよ」と笑って言った。ぼくはその笑顔に少し安心して、「上野駅」と書かれた腕章をつけ、コンコースを横切って改札の駅員にあいさつをして中に入り、3・4番線の階段を早い足で上がって、寒いホームに出た。
 ホームの事務室のドアを開けて、「助勤にきました」とあいさつをすると、中年の助役が「ああ、ご苦労さん」と声をかけ、事務室にいた駅員と相談して、「それではまず旗振りをやってもらおうか」と言う。「あのう、初めてなんですけど、どうやればいいんでしょうか?」と聞くと、「あっ、そうかい、君、ちょっと教えてやってくれ」と、駅員に指示した。ぼくは短い棒のついた赤旗を渡され、一連の動作のしかたを説明された。
 この当時、夕方のホームには、3人の駅員が立つことになっていた。ぼくはそのうちの一番北寄り、つまり南へ向かう電車の後ろ寄りに立ち、電車が入ってくる前にホームと線路の安全を指差し確認する。電車が到着し、客の乗り降りが終わったら、前寄りにいる駅員が端を閉じたまま上に上げるのを確かめ、ぼくの周囲の客の乗降終了を見て、車掌に向かって同じように端を上げる。ドアが閉まると、側灯(車両ごとにドアの上あたりについている赤いランプ)の消灯を確かめる。そして、電車が出て行くときには車掌に挙手のあいさつをする。電車が出て行ったあとで、もう一度、ホームと線路を指差し確認する。これがホームの「立ち番(列車監視)」の基本動作である。
 鉄道ファンであるぼくは、これまでも駅員の動作をいつも見ていたし、その動作を自分が仕事として客の前で演じることは、ぼくにとって長年のあこがれだった。それが今、まさに現実のものになるのだ。「立ち番」から戻った駅員と交代して事務室を出たぼくは、大きな喜びと、それ以上の緊張感に包まれていた。国鉄で働いた最初の日は、こうして始まったのだった。


  感動の「はつかり」
 冬の夕暮れは早い。旗を持ってホームに出てから30分も立たないうちに、事務室からの放送でぼくは呼び戻された。暗くなったので、赤旗を合図灯に交換するためである。
 当時の合図灯は、現在のような小型のものではなく、一升瓶の上のほうを少し切ったくらいの形と大きさ。中にバッテリーが入っていて、取っ手を握って上に上げるとズシリと重さを感じてしまう。明かりの色は、通常の場合は、白。停止を求める場合は赤に切り替える。もう一つ、緑色にもなるが、これは列車ホームの助役が発車合図に使うもので、国電ホームの駅員には関係ない。
 ホームの立ち番でうれしいのは、走り出した電車の車掌とあいさつを交わせること。向こうは毎度のことで何の感激もないのだろうが、こっちは初めて乗務員と仕事上の動作を交わすことができて、物心ついたときからの鉄道ファンとしては、天と地がひっくり返ったような画期的な喜びなのである。そしてその喜びが、数分ごとにやってくるのだから、たまらない。それにぼくの仕事は、乗客の安全を守るという大切な仕事。背筋をピンと伸ばし、乗客の視線(と言っても、向こうはぼくに注目しているはずはないのだけれど)を気にしての、大きな確認動作。寒さなど、どこ吹く風である。
 ホームの駅員の仕事は「立ち番」だけではない。正規の職員と交替して事務室に戻ったぼくに、若手の職員が、「鳴いてみるかい?」と言う。意味がわからずに聞き返すと、案内放送のこと。びっくりしたまま、ホームが見える椅子に座って、時刻表を見て、入線する電車の行き先をしゃべってみたが、これがまったく様にならない。「4番線に桜木町行きがまいります」と、やっと声を出しただけで、「すいません、うまくできません」とギブアップしてしまった。駅員は笑いながら、「しょうがないなあ、それじゃあホームの掃除に行ってくれ」と言う。ぼくは、ホッとして、あっという間に汗ばんだ体で事務室の外に出た。
 今はホームの掃除も下請け業者が行っているが、当時の上野駅では、ホームの掃除は駅員が、それ以外の駅構内(階段やコンコースなど)や、折り返し電車の車内は業者が受け持っていた。ぼくは、柄が長くハケの固い竹ボウキと、やはり柄のついたチリトリを持って、ホームをゆっくりと歩き始めた。
 掃除をはじめてすぐに、これは掃除というよりもタバコの吸い殻集めだということに気がついた。国電のホームに落ちているゴミの90パーセント以上が、落とされて踏みつけられたタバコの吸い殻なのである。しばらく集めているうちに、ぼくはだんだん腹が立ってきてしまった。ホームの柱に取り付けられた吸い殻入れからモウモウと煙が上がっているのに気がついて、事務室まで水を汲みに行ったとき、ぼくの怒りは最高潮に達した。
 「世の中に タバコというもの なかりせば ホーム掃除は 楽なりしものを」
 ぼくが高校時代にタバコを吸わなかったのは、実にこの経験によってのことだったのである。

 翌日、ぼくの配置は高架第1ホーム。つまり、京浜東北の北行と山の手内回りのホームで、仕事はやはり、立ち番とホーム掃除。ぜいたくなもので、2日目になると、もう国電ホームに飽きがきてしまった。向こうに見える特急や急行が、うらやましく思えた。すると、それが通じたのか、次の日の勤務開始のとき、顔見知りになった東洋大牛久高校の2年生が、「国電ホームはつまらないだろう、きょうは列車ホームに行けよ」と、ぼくを高架第4ホームに回してくれた。(この牛久高校の先輩には、その後もずいぶん世話になった。)ぼくは、「ありがとうございます」とお礼を言って、勇んで高架第4ホーム、つまり7・8番線ホームに向かったのだった。
 7・8番線は、入ってくる列車が国電ではないというだけではなかった。同じ「立ち番」とホーム掃除でも、中身が違っていた。
 列車ホームのゴミの主役は、タバコではなかった。長い時間ホームに座って列車を待つ乗客の捨てた弁当の殻や新聞紙が、圧倒的な物量で、ぼくの前に立ちはだかっていた。しかし不思議と、この手のゴミの始末は、まったく苦にならなかった。これらのゴミからは、顔をしかめてしまうタバコの臭いではなく、年末に東北へ帰省するたくさんの客の、故郷の匂いがした。ぼくはホウキとチリトリを中に積んだ大きな竹カゴを紐でズルズルと引っ張り、大きなゴミを、ホウキとチリトリで挟んで、せっせとカゴに入れて回った。家では掃除ぎらいのぼくが、鼻歌を歌いながらこんな大きなゴミを楽しそうに集めているなんて、自分でも不思議だった。
 空がすっかり暗くなったころ、ぼくは合図灯を持ってホームに立った。列車ホームの立ち番が国電ホームと違うのは、進入してくる列車の運転士とも挙手のあいさつを交わすことだった。鉄道ファンにとって、運転士は一番のあこがれ。その運転士と仕事のあいさつを交わせるのは、何にも勝る魅力である。ぼくは、初日の立ち番にも増して緊張、紅潮した顔でホームに立った。
 列車ホームでは、一番北寄りに駅務掛が、ホームの中ほどに責任者であるホーム助役が、一番南側に営業掛が立つことになっていた。ぼくは駅務掛の助勤なので、駅務掛の代わりに、ホームの北寄り、すなわち到着する上り列車を最初に迎える位置に立ったわけである。
 「鳴き番」(放送担当)が、ホームにいる駅員に列車の接近を伝える。
 「業務放送、2022M、8番接近。」
 「2022M」とは、前年の東北本線全線電化で登場した、最新型の電車特急583系の上り「はつかり2号」のことだ。このときの上野駅の一番の花形列車である。その「はつかり」が8番線にもうすぐ入ってくることを立ち番の駅員に知らせているのだ。続いて、ホームにいる出迎えの客へのアナウンス。
 「まもなく8番線に、青森からの特急はつかり2号が到着いたします。危険ですから白線の内側まで下がってお待ちください。」
 ホームの先の暗がりを見つめるぼくの目に、小さい正三角形を形作った3つのヘッドライトの光が見えた。その三角形の光は、ゆっくりと右へ、そして左へうねりながら、しだいに大きくなってきた。ぼくはもう一度、ホームと線路の安全を大きな動作で確かめた。
 列車がホームの端まで迫ったとき、ライトの光がスッと弱まり、底辺の二つのライトの間に「はつかり」の文字が浮かんだ。高い運転席に2人の運転士の顔が見えた。両足を心持ち広げて左手に合図灯を下げていたぼくは、右手をゆっくりと上げながら肘を曲げ、指先をこめかみに近づけた。運転席の2人の運転士が、ぼくに挙手を返した。かたわらを通り過ぎる583系電車の風が、直立するぼくの体を包んだ。ぼくは、もう、涙が出そうな感動に包まれていた。そのぼくの耳に、「うーえのー、うえの、うーえのー」という、歌うようなアナウンスが聞こえてきた。最高の、最高のひとときだった。


16番線の485系「やまびこ」(上野―盛岡間の特急)のとなりの15番線に、夜行列車を引いてきたEF57が停まっている。  1974.8.13.

 急行401列車 「津軽1号」
 上野駅がぼくたちアルバイトを雇うのは、帰省客輸送を円滑に行うためだ。この時期、上野駅は、正規の職員のほかに、岩倉高校の実習生や、ぼくたちアルバイト、他駅などからの応援の職員、鉄道公安職員や警視庁機動隊員などを総動員して、臨戦態勢で客扱いを行っていた。
 当時の列車の主力は、夜行の急行列車。国鉄は定期列車のほかに、全国各地から呼びの客車を帰省輸送用に借り集めてたくさんの臨時列車を編成し、何とか「積み残し」の客が出ないように、そして混雑のために事故が起きないように、知恵を絞って態勢を作っていた。
 「はつかり」に感動した翌日、ぼくは初めて「誘導」の仕事についた。年末輸送のピークとなる12月29日のことだ。当時、帰省のピーク時には、上野発の長距離急行列車の自由席客を対象にして、1枚100円の「着席券」(整理券)が事前に発行されていた。列車が入線すると、まずこの着席券を持っている乗客を先に乗せ、そのあとで他の客を乗せるという方法である。これは増収のためと言うより、指定席の少ない急行列車に、自由席急行券を持つ客が何時間も前からホームにあふれることを避けるための手だてだった。したがって、駅側では、着席券を持つ客とそうでない客に分けて整列させ、列車まで誘導する必要があった。「誘導」の係は、その仕事を受け持っていたのである。
 
  13番線に仙台からの寝台急行「新星」が到着した。 1974.8.14. 

 着席券を持つ客は、指定された時間までに、ホームではなく「団体待合所」という名の、高架ホームの下の薄暗い荷物用の通路に集合する。そしてその乗客たちを車両ごとの定員に区切り、その列車の入線時刻の少し前に、ホームに誘導する。そのとき、誘導係は1両ごとの列の先頭に、列車名と号車番号が書かれたプラカードを持って立ち、大きな荷物を抱えて続く乗客の列を従えて、ホームの乗車位置に導くのである。ホームには制服の公安職員が乗車口ごとに配置されていて、不正な割り込み客をシャットアウトする。まさに「厳戒態勢」である。
 乗車口に着席券の客が並んだころ、ホームの放送が列車の接近を告げる。
 「業務連絡、回送ヨンマルイチ(401)列車、トウゴ(15)番接近」。
 列の先頭にいるぼくの顔が緊張でこわばる。続く「奥羽本線回り青森行き急行津軽1号が入線します」のアナウンスに、並ぶ客たちは色めき立つ。「一列のままお待ちください」と、ぼくは乗客に声をかけ、整然とした列を確かめてから、視線を列車が入ってくる前方に移す。暗いポイントの向こうから、最後尾の客車のカマボコ型の輪郭が現れた。安全確認のための乗務員を乗せて、尾久の客車区から推進運転(バック)でやって来た列車は、ゆっくりと、行き止まり式のホームに停車した。
 「皆さん座れますので、押さないでください!」と大きく叫ぶぼくの声が耳に入らないように、あせった客が客車のステップをあわただしく上がって行く。列が全部車内に吸い込まれ、乗客が自分の席を確保してやっと笑顔を見せると、今度はその横に並んでいた「座れない客」を乗り込ませる。「デッキに止まらずに奥へ進んでください!」と声を枯らすが、不思議なもので、どうしてもデッキに居すわる客がいる。列が何とか車内に押し込まれるころには、狭いデッキは身動きが取れなくなる。ぼくたち誘導係は閉まっている客席の窓の外から、大きな動作で、立ち客を車両の真ん中に動かそうとするのだが、一度自分の場所を決めてしまった客は、なかなか動こうとしない。もうこれまでというところで、ぼくはデッキの手動式のドアをやっとの思いで閉める。デッキの客に安堵の表情が浮かぶ。
 発車まであと数分。しかし、まだ「津軽1号」に乗ろうとする客がホームにやって来て、ぼくたちに「乗せてくれ」と言う。ぼくたちは、まだ余裕がありそうなデッキを探して、もう一度ドアを、中の客を押しのけるようにこじ開けて詰め込む。しかし、客車のドアは内側に開ける構造なので、中の客が動いてくれなければ開けることができない。
 もう限界だと思ったとき、小走りに駆け寄ってきたGパンの若い女性が、「何とか乗せてください。どうしてもこの列車で帰りたいんです」と、ぼくと仲間たちに迫った。迫ると言うより、哀願する表情である。一瞬考えたぼくたちは、「窓から入れよう」と決めた。ぼくは、車両の真ん中あたりの、通路に隙間があるところの窓を叩いて、中の客に開けてもらい、「ここから乗ってください」とその女性に言って、まず、中の客に彼女の大きな荷物を受け取らせ、
窓枠に手をかけた彼女の足を支えて中に押し込んだ。座席の客も、いやな顔もせずに協力してくれた。彼女を無事に積み込んだぼくたちは、中の客に「すみませんでした」と礼を言い、彼女はぼくたちと周りの客に頭を下げた。
 再び閉まった窓の外で、ぼくたちが顔を見合わせて、「スカートだったら乗れなかったな」と笑ったとき、発車のベルが鳴った。長いベルのあと、出発合図のブザーが聞こえ、EF57型電気機関車のかん高いホイッスルとともに、「津軽1号」はガタンと動き出した。
 ゆっくりと滑り出す客車の窓の中では、満員の客がそれぞれに笑顔を浮かべている。座席でもう酒盛りを始めている人たちもいる。直立して列車を見送るぼくたちの目の前を、赤いテールランプが流れて行く。その赤が次第に小さくなったとき、ぼくたちは「ヨシッ」と声をかけて、次の列車の客が待つ待合所に向かって歩き出した。一番の難関、急行401列車「津軽1号」を定時に送り出したぼくたちの足取りは、心なしか軽かった。

 元日は血豆にまみれた
 1970年1月1日、晴れ。雑煮とおせち料理を気ぜわしく食べたぼくは、高校の制服を着て、午前9時過ぎに家を出た。地下鉄丸ノ内線の茗荷谷から池袋へ出て、国電の改札口で職員用の乗車証明書を見せて山手線に乗る。この日は、初めての、改札の仕事だった。
 午前10時。日勤のアルバイトの配置先を決めるとき、ぼくが、「改札はまだやったことがないんですけど……」と担当の助役に遠慮がちに話したら、ちょっと驚いたような顔をされたが、「じゃあ、公園口に行ってくれ」と指示された。高架ホームから階段を上った通路の西、上野公園に面した公園口は、一番乗降客が少ない。ぼくは1人で公園口の改札事務室に行き、「おはようございます、助勤に来ました」とあいさつした。
 アルバイトの改札の仕事は、入口で乗客のきっぷにハサミを入れること。今は自動改札か、ホチキス型のスタンプ式になっているが、少し前までは、どこの鉄道でも、改札口では駅員がハサミ(これを「パンチ」という)で切符に切れ込みを入れていた。あの、「カチャカチャ……」という音が、駅の改札口の独特な雰囲気を作っていたのである。
 さて、初体験のぼくは、まず事務室でパンチの使い方を教わった。ちょうどペンチを縦に持つような感じで、親指と人差し指で鉄製のパンチをはさみ、中指と薬指で下側の握りを上下させ、前のかみ合わせに切符を差し込んで刻みを入れるのだが、これが実にむずかしい。メモ用紙をゆっくりと切る練習をしたのだが、ちょっとスピードを上げると、もう手の中でパンチが踊ってしまう。少し練習しただけで、手が痛くなってしまった。
 10時30分。いよいよぼくが改札口のラッチ(あの囲いの中)に入る時間になった。練習に使っていたパンチをそのまま持って改札口に行き、駅員と交替してラッチの扉を閉めると、深呼吸するまもなく、客が切符をぼくの前に差し出す。ぼくはそれを左手で受け取り、かみ合わせの部分に挟んで、右手の中指と薬指を曲げると、「パチン」という音とともに、切符にM字型の切れ込みが入った。立ち止まって待っている客にその切符を渡したとき、ぼくの手はもう汗ばんでいた。
 改札口に立つ時間は、1回30分。時間が来ると交替して事務室で休息できるのだが、最初の30分は気が遠くなるほど長かった。元日の公園口の利用客はまばらで、客がぞろぞろと続いてくるわけではなく、インターバルがあるのだが、それでも数人のグループがまとまって来ると、もうこっちは必死である。何しろこのときの公園口の入口には、ぼくしか駅員がいないのだから、責任は重大。たまに定期券の客が来ると、ホッとした。交代の駅員が来てようやくラッチを出たぼくは、全身汗びっしょりになっていた。
 事務室に戻って手を洗っているとき、ぼくは右手の人差し指に小さな血豆ができているのに気がついた。知らないうちにパンチのかみ合わせのところに挟んでしまったのだろう。ぼくの手を見た駅員が、「最初はだれでも血豆を作るんだよ」と言って、やさしく笑った。
 この日、ぼくは18時の勤務終了までに、8回、改札口に立った。最後の立ち番が終わったとき、指の血豆は親指と中指も合わせて、大小5個に増えていた。いつも軽快な「カチャカチャ」の音を聞くだけだった改札の仕事がこんなに重労働だとは、思ってもいなかった。もちろんぼくの未熟さにその原因があったのだけれど……。家に帰る電車の中で、ぼくは右手の指をそっと隠し続けていた。

 その数日後に庶務課で受け取った、年末からの助勤の給料袋の中身は、1日分多かった。給料をぼくに渡してくれた庶務係長にたずねたら、元日の勤務は2日分に計算するとのこと。ぼくは喜んでお礼を言いながら、この1日分はぼくの右手の血豆にくれたのだと、密かに思ったのである。

 アルバイト駅員の仕事と生活
  
 18番線に到着した「津軽1号」から郵便物を運び出す。ここは17番線との間の荷物ホーム。  1974.8.14. 

高校1年生の冬休みに初めてアルバイト駅員を経験したあと、ぼくは続けて、1月と2月の週末に、何回かホーム配置の助勤をした。スキーシーズンの臨時列車の運転に合わせたもので、15時から翌朝10時までの泊まりの勤務。泊まりと言っても、労働基準法で高校生の深夜勤務は認められていないので、2日に分けての勤務として扱われていた。もちろん、寝る時間と寝る場所、そして夕食と朝食の時間は確保されていた。
 職員の食事は、ホーム事務室の場合は、ふつう、4人の勤務者の分をまとめて自炊する方式がほとんどだった。事務室にはガス台と流しのついた休憩室と、2段ベッドの寝台がついている。駅員の勤務は、朝の8時から翌朝の8時までの24時間勤務がほとんどなので、この事務室が生活の場所でもあるわけだ。
 ぼくたち助勤者は、この炊事の仲間には入れないので、食事は仕事の合間をぬって各自で食べることになっていた。その時間はどこへ行ってもよかったのだが、短い時間で安く食べられるところがあった。それは職員食堂。広小路口の地下にあるその食堂へは、薄暗い職員通路を通って行く。そして扉を開けると、少し大きめの大衆食堂の雰囲気。初めは気がつかなかったのだが、この職員食堂は「あきやま食堂」という一般客向けの食堂の一部を仕切って設けられていた。垣間見る向こう側では、旅行客が食事をとっている。こちら側はもちろん豪華ではないが、何より安いし、一品のおかずを選ぶこともできるのが楽しかった。(この食堂は今はない。)
 さて、ぼくたち助勤者が寝たところである。ホーム配置のときには、ホーム事務室のベッドが空いていれば、そこに寝かせてもらえた。このベッドが、鉄道ファンであるぼくにとっては最高のロケーションなのだが、そううまくはなかなかいかず、上野駅旅客課の奥にあるベッドルーム(1段だが、何となく、兵舎か収容所の雰囲気)で寝ることが多かった。
 改札の泊まりのときにもここで寝たが、誘導係になると、10人ほどのチームで行動するため、駅にはなかなか泊まれず、正面口を出て少し歩いた駅前旅館に行って、チームごとに部屋に入れられた。夜更けに高校生の集団がドヤドヤと(それでも静粛に)旅館の階段を上がって座敷に入り、押入れから布団を出して敷く風景は、不思議な修学旅行みたいだった。このとき泊まっていた旅館が、井伏鱒二の小説「駅前旅館」のモデルになった「まつのや旅館」だということを、ぼくは10年ほど前に知った。(くわしくは拙著「駅前旅館に泊まるローカル線の旅(ちくま文庫)」を読んでください。)
 翌朝は、前夜の仕事の終わった時間によって、6時、または7時からの仕事になった。勤務は10時までだから、朝の仕事は気分もはつらつ、出入りする列車を眺めながらの幸せな時間だった。
 
 高校2年、1970年の夏休み、東北旅行から戻ったぼくは、次の旅行費用をためるために、また上野駅で働いた。このときは、ほとんどが改札。もうあまり血豆を作ることはなく、器用にパンチを操るようになっていた。
 改札口の仕事で一番楽しいのは、やはり地平ホームに面した中央改札口だった。ここを通る客はほとんどが長距離客で、ぼくに差し出す切符の行き先も種類も様々。それに国電の客と違って、せかせかしていない人が多いので、ぼくは切符を確かめる動作をしながら、その客の行き先の風景を頭に浮かべて楽しんでいた。
 中央改札には、もう一つの仕事があった。それは、出発列車の案内板の架け替えである。 今はみんな電光掲示になっているが、当時、中央改札の上には、ワイヤーに、列車の発車時刻とホームが書かれた木の板(プラスチックもあった)が吊り下げられていた。客の切れ目をぬって、となりの仲間(やはり高校生)と声をかけ合い、発車した列車の案内板をはずし、開いたスペースに、まだ掛けてない列車の板を掲げるのだ。これが何とも楽しく、ウキウキする作業だった。
 さて、30分交替で事務室に戻ると、そこでの仕事はない。休憩室には客が車内に残していった週刊誌などが置いてあって、それを読んでいてもいいのだが、8時間勤務のうちの4時間をそれに使うのはもったいない。そこでぼくは、高校の夏休みの宿題を持って行くことにした。30分である程度進められて、時間で打ち切っても30分後にその続きをすぐ始められるものは、英語の翻訳だった。この年、ヘミングウェイの「老人と海」を授業でやっていて、範囲を決めた日本語訳の宿題が出ていた。夏休みの前半をワンゲルの合宿と東北旅行に使ったために、宿題の消化が遅れていたこのとき、改札の仕事は、ぼくに思いがけない福音をもたらしたのである。

 高校2年の冬も、上野駅で働いた。鉄道が好きな同級生の1人をアルバイトに誘って、充実した楽しい日々を過ごしたのである。この冬は、ホーム配置が多かった。
 列車ホームの仕事できつかったのは、「サボ交換」。「サボ」とは、サイドボードの略で、列車の側面に取り付けられた、長細い行先表示板のことである。現在では、ほとんどが運転席のスイッチ一つで動く「あんどん式」の方向幕になっているが、このころは車両の両数分の鉄製・ホーロー引きの板を腕に抱えて運び、1両ごとに取り替えなければならなかった。
 たとえば11両編成の普通電車や急行電車の場合、2人がホーム側と反対側に分かれて、それぞれ11枚の鉄板を抱えての作業となる。軍手をはめ、左の脇にサボを抱えるのだが、これがズシリと重たい。留置線から回送されて来た車両で、サボ受けに前の運用のサボが入っていない場合には、1枚入れるごとに軽くなっていくし、入っているサボを裏返すだけなら手ぶらで歩けるのだが、入っているサボを回収して自分が持っていったサボを入れるときは、ホーム事務室を出てから戻るまで、ずっと11枚の鉄板の重さに耐えなければならないので大変だった。

      
 下から、「急行」の種別表示、「2」の号車表示、そして行先表示板。この気動車のドアには、タブレット閉塞区間を通るため、乗務員室窓(左)で受け取ったタブレットでガラスを割らないように、防護柵を取り付けてある。  1970.9.30. 急行「みちのく」
 
 サボをサボ受けから抜くときには、やはり技術がいる。客車のサボ受けは窓の下にあるので楽なのだが、電車やディーゼルカーのサボ受けは窓の上にあるので、手を伸ばして引き抜くのだが、サボには取っ手がないので、すんなりとは抜けない。初めのうちはだいぶてこずっていたのだが、ホーム配置の若い駅員(サボ交換は一番若い駅員の仕事)の手際は実にみごとだった。まず、サボ受けに入っているサボを、軍手をはめた手で差込口の方向にバンとたたいて、サボの端をサボ受けの口から少し出し、スッと引き抜いてわきの下に挟む。そして、新しいサボの端をを差込口に斜めに引っかけて、「ガシャン!」と気持ちのいい音をたててサボ受けに収めるのである。日本刀の居合といえば少し大げさだが、その片鱗を感じさせる職人芸である。ぼくはとてもそこまで腕は上がらなかったが、それでもサボ係の駅員の動作を少しゆっくりにしたくらいの域に達することができた。
 サボ交換は、きつかったけれど楽しかった。これから出発する列車の準備作業に自分が直接加わっていると思うだけで満足感があったし、自分の作業を、列車を待つ乗客に見つめられていることに、不思議な快感を覚えた。
 ホームと反対側のサボの交換には、もう一つの楽しみがあった。列車によっても違ったが、反対側のドアを開けなければ作業ができないので、自分でドアの操作をすることがあったのだ。到着した電車の車掌が反対側のドアを開けてから車掌区に行った場合には、作業のあとで、ぼくが乗務員室のドアスイッチを押してドアを閉める。反対側のドアが閉まっている場合には、1両ずつ、ドアの非常コックを操作してドアを手で開け、サボを取り替えてから、もう一度コックを操作してドアを閉めるのだ。乗客のときにはできないこの操作をするときのぼくは、顔はまじめだったけれど、心の中はニコニコ笑っていた。
 常磐線国電ホーム(当時は9・10番線)に配置になったときには、「前サボ」の交換もした。常磐線にはまだ旧型の茶色い72系が使われていたので、先頭車の正面には行先の書かれた四角いホーロー引きの鉄板が、前サボ受けに何枚も入っていて、到着したときには「上野」の表示が一番前に出ていたのを、「松戸」や「取手」のサボと入れ替えるのだ。この作業をするには、片手で車端の手すりをつかんで片足を大きく前に出して、サボ受けの下の板にかけ、もう一方の手で重い鉄板を持ち上げる。はじめは線路に落ちそうで、こわかったが、慣れるとこれもなかなか味のある作業だった。

 ぼくが高校時代に上野駅でアルバイト駅員としてこなしていた仕事の多くは、今、駅員の仕事ではなくなっている。
 ぼくが血豆を作った改札のパンチは、ホチキス型のスタンプに変わり、そして改札口は自動化された。列車のサボは、ほとんどが行灯式の方向幕になり、乗務員室のスイッチ操作で変えられる。ホーム掃除も、下請けの作業員の仕事になった。乗客の安全を守るための列車監視は、収入に直接結びつかないためか、削減されてしまった。最近、ホームでの事故や飛び込み自殺がマスコミに取り上げられると、JRは、警備会社にホームの警備(?)を委託した。
 上野駅では、ぼくのような一般の高校生のアルバイト駅員の募集を、ぼくが高校を卒業した年に、取りやめた。ぼくのような経験は、それ以後は、したくてもできなかったのだ。だから、ぼくの上野駅での経験は、幸運に恵まれた貴重な体験、ということになる。
 今年1月、撮影旅行から「つばさ」で東京に戻ってきたぼくは、ふと思い立って、上野駅の地下深い新幹線ホームに降り、エスカレーターを乗り継いで、地平ホームに出た。当時の面影をまだ少し残している地平ホームの入口に、石川啄木の歌碑を見つけた。ぼくは、思わず足を止めて、その傍らに立った。
 上野駅で働いた日々から、もう30年以上の月日が流れている。でも、ぼくの目には、16番線ホームをさっそうと歩く、高校生のぼくの姿が浮かんで見えた。


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