霧雨にけむる雄物川橋梁をD51貨物が渡る 1972.5.1.
1972年4月、ぼくは秋田大学に入学した。
東京で生まれ育ったぼくが、秋田での大学生活を選んだのには、いくつか理由がある。
教員になろうと思っていたぼくは、家の経済事情から国立大学への進学を求められていた。 東京を離れて暮らしたかったぼくは、高校時代の東北への旅から、大学は東北地方へと考えた。
だが、最初の模擬試験で『山形』『岩手』と書いていた志望校を『秋田』に変えた最大の理由は、『蒸気機関車』だった。ぼくが(現役で)大学に入学する1972年4月の時点で、東北地方の国立大学の中で蒸気機関車が間近に見られるのは、弘前と秋田。しかし、弘前は、五能線から入ってくる8620や、C11だけなのに対して、秋田には、その年の10月の電化までの半年間、羽越本線のD51を見ることができる。それに、他の撮影地へ出かけるにも、拠点を秋田に置いたほうが、ずっと便利だ。そして、市内には叔父の一家が住んでいるので、少しは親も安心する。
1972年3月、ぼくは受験旅行に出かけた。
まず、1期校(当時)の東北大学を受験した。しかし、ぼくが勉強したい地理学は、理学部にあり、数学が極端に苦手なぼくには、とても合格の見込みはない。だが、せっかくの機会だし、これまでの旅行と違って、旅費は親から出してもらえるので、行かない手はない。宿泊は仙台のユースホステル、いでたちは、これまでの撮影旅行と同じく、キスリングザックに登山靴である(皮革の短靴をザックに入れてはいたが)。もちろんカメラを持ち、1問も解けなかった数学に、さっぱりとあきらめて、仙台市電と仙石線の写真を撮って、上野行の普通列車でのんびりと帰ってきた。
秋田大学の受験も、同じかっこうで出かけた。東北本線の夜行急行『まつしま』を福島で下り、朝一番の奥羽本線の普通列車で、のんびりと大曲まで。そこから田沢湖線に入って、田沢湖ユースホステルに宿泊、翌日、秋田について、試験場の下見をした。宿泊は、ユースホステル八橋青年の家である。
1日目の試験科目は無難に終わり、2日目は、数学だけ。模擬試験のこれまでの成績と1日目の手ごたえからして、数学は1問だけでも解ければ、合格できると踏んでいた。数Uまでの文科系の数学なので、落ち着いて取り組めば大丈夫だろう。
その1問が、解けた。大きく息をついたぼくの耳に、聞きなれた汽笛の音が響いてきた。そっと横に目を向けると、窓の外の家並みの向こうに、白い煙がたなびいていく。羽越本線の貨物列車を引くD51が、秋田操車場へ向けて最後の力行をしているのだ。ぼくは体が熱くなった。気合を入れなおして、残りの3問に取り組み、何と、全部答えを出してしまったのだ。合っていたかどうかは知らないが、とにかくこんなにできた数学は、今までになかった。
ぼくは意気揚揚と試験場を後にして、駅に預けていたキスリングザックを受け取り、奥羽本線の上りのディーゼルカー、キハ17のビニールシートに腰をおろした。この日は横手に泊まり、翌日は初めて北上線に乗って、陸中大石(現・ゆだ錦秋湖)でディーゼル機関車DD51の写真を撮った。さらに次の日は陸羽東線のC58を撮り、新庄からディーゼル急行「おが1号」で東京にもどった。
自宅にもどったぼくは、合格発表の前から、秋田へ送る荷物の荷造りや、住民票の手続きをした。あきれている親に、「あの試験の『でき』で落ちたら、来年受ける大学がないよ」と、すました顔をしていた。
合格の第一報は、高校時代に何度も世話になった、花輪の叔母さんからの、早朝の電話だった。地元の新聞に、合格者の名前が載っていたのだとのこと。少し遅れて、電報も着いた。
1972年4月12日の夜、ぼくは上野駅から、友人2人に見送られて、羽越本線回りの急行「鳥海2号』で、新しい生活に向けて旅立った。それは、大学であり、寮であり、そして、D51のいる、秋田の鉄道風景だった。
秋田での4年間は、あのときのD51がくれたのだと、今でもぼくは思っている。
通学路のD51
ここがぼくの通学路だった 旭川橋梁を渡るナメクジD51 1972.5.
いまは無き秋田大学教育学部啓明寮は、秋田駅から北西に約2kmの、保戸野原ノ町にあった。大学キャンパスは、駅の北東1kmの手形学園町。寮から大学までの徒歩30分、自転車だと10分の通学路の途中に、奥羽本線の踏切があった。秋田駅と秋田操車場(ぼくたちは『アキソウ』と言っていた)の間の、旭川という小さ目の川の土手に、歩行者だけの踏切があり、そこをぼくは通学路にしていた。もちろん、警報機が鳴るのを待ちわびながら……。
この区間を走る旅客列車は、半年前の奥羽北線電化によって、電気機関車ED75が引いていたが、貨物列車の多くは、秋田操車場までD51が受け持っていた。だから、入学後すぐに入った鉄道研究会の先輩に列車ダイヤをもらい、ぼくは毎日、D51の汽笛を聞き、その勇姿を見ることができたのである。
機関区通い
1972.9.11.
秋田大学鉄道研究会は、総勢10人ほどの、こじんまりとしたサークルだった。個性的な先輩たちとのつき合いは楽しかった。その中で、鉄道写真撮影に意欲を燃やしていたO氏には、写真のアングルのとりかたや、運転情報の入手方法などのノウハウを教わり、しばしば撮影に同行させてもらった。
そのO氏から、すぐに教わったのが、秋田機関区での撮影。「事務所で住所氏名を書いて許可をもらうのだが、しょっちゅう通っていると『顔パス』で平気だ」とか、機関区の設備のこと、機関車が毎日決まった時間に決まった待機線に止まっていること、『指差確認』のポイント、そして機関車ごとの特徴など、多岐にわたる教えを受けた。
大学の昼休みの時間に酒田機関区のD51が、撮影しやすい位置に止まっていることを教わり、ぼくは授業と昼食の時間を惜しんで、自転車で大学から5分ほどの機関区に通った。昼休みにちょっと抜け出してD51の写真を撮れるなんて、ああ、何という幸せな日々だったことか。
D51は、1115両という多くの仲間がいたので、そのスタイルや付属品、改造箇所などは様々。機関区にいるカマは、毎日違うので、いつも新鮮な発見があった。
転車台に乗るD51892(秋) 1972.5.11.
秋田機関区で憩う、酒田機関区所属のD51431 1972.7.6.
きれいな標準型D51だ。(東北のD51は、重油併燃装置がついて
いるので、テンダに四角いタンクが載っている。)
憧れの『ナメクジ型』も、じっくり見ることができた。 D5129(酒) 1972.7.9.
ギースル型煙突のD51457(秋) 1972.6.
長野工場型デフレクターのD51324(新津機関区所属) 1972.7.
カマボコをボイラーの上に載せたような、戦時型のD511095(秋)
秋田駅 1972.5.25.
通勤通学列車が着いた、秋田駅2番ホーム
秋田大学鉄道研究会では、この日、大学祭の展示のため、秋田駅の協力を得て、秋田駅24時間ルポをおこなった。ぼくは、6時から12時までの担当だったため、その時間帯の写真しか撮っていないが、その中から何枚かを紹介する。
駅助役から機関士が連絡票を受け取る。 401列車 急行『津軽1号』
ディーゼル急行の見送り風景。窓は、開けるものだった。
客車の増結。高校生たちが待っている。
特急『日本海』。DD51のヘッドマークが誇らしげだ。
羽越本線回りの上野行特急「いなほ」。特急「はつかり」として登場した
キハ81系である。
ホームに停まった蒸気機関車は、子どもたちの注目の的
秋田には、丸顔が特長の、DD51のトップナンバーがいた。
羽越本線雄物川橋梁
菜の花畑の向こうをD51が行く。 1972.5.7.
秋田市の市街地の南、羽越本線の新屋と羽後牛島の間で、列車は雄物川を渡る。広々とした河川敷と、鉄橋のトラス(中路トラスという、上桁と下桁の間にレールを敷いた、めずらしいタイプ)が印象的だった。寮から6kmの道のりを、自転車をこいで通った。
雄物川橋梁を渡る貨物列車は、ほとんどがSLけん引。新屋までの区間貨物は、秋田機関区のC11、そして長距離貨物は、もちろんD51が引いていた。普通旅客列車も、半数はD51が受け持っていたので、土手に座ってのんびり待つ時間が、とても楽しかった。
新屋の製紙工場へ向かう、C11の貨物列車。チップ(木片)を積んでいる。
1972.5.7.
下り貨物列車。D51は、950トンの貨物を引いていた。 1972.5.6.
豪雨で増水した雄物川を渡る下り普通列車。 10両編成である。 1972.7.10.
日本海縦貫のスター、キハ82系の特急「白鳥」 1972.6.26.
下浜−新屋間の桂根信号場(今は駅に昇格)でのタブレットの風景。自動信号区間の羽越本線に、電化工事の過程で、1日だけのタブレット閉塞が出現した。 1972.6.24.
霧の鉄橋 1972.6.25.
新屋を出発した上り列車。大森山の上から俯瞰した。自転車で登ったので、実に疲れたが、帰りのダウン・ヒルは最高だった。 1972.7.16.
秋田での最初の半年間、ぼくは、D51とともにあった。今、写真を見返すと、「もっと通えなかったのか」「あそこも撮っておけばよかった」などと考えてしまうが、そのときのぼくは、十二分に充実した日々を送っていたのだ。日本海縦貫線の最後の非電化区間の、最後の半年間に立ち会えて、ぼくは本当に幸せだった。
1972年10月1日、羽越本線電化開業。秋田機関区から、秋田駅から、雄物川から、蒸気機関車の煙が消えた。
夕暮れ近く、上り貨物列車が鉄橋を渡る。 1972.9.1.
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