交流電気機関車たち
    
コンテナ列車の先頭に立つED71型。 1974.4.4. 東北本線藤田―貝田(福島県)

 東北本線は、ぼくが中学3年生の1968年10月に、青森までの全線が電化されていた。電化以前の盛岡―青森間には、C60、C61、D51といった大型の蒸気機関車が疾駆していたのだが、ぼくは残念ながら、その光景に間に合うことはできなかった。でも、東北本線を快走する赤い交流電気機関車たちの姿に、ぼくは東北の鉄道の未来を感じていた。
 
 鉄道電化には、交流方式と直流方式がある。すでに電化されていた、東京近郊の各線や東海道本線などは、直流電化方式を採用していた。
 直流電化方式とは、発電所で造られる電気は交流電流だが、電気機関車や電車のために実用化されたモーターが直流用なので、その直流モーターに送る電気を、線路の脇の変電所で直流電流に変えてから架線に流す方式のことだ。しかし、直流では、架線に流せる電圧が低く(1,500ボルト)、コストもかかることから、1953年に、国鉄交流電化調査委員会が、低資金での電化には商用周波による交流電化が得策であると報告、翌1954年から、仙台と山形を結ぶ仙山線の作並―山寺間で、交流電化のテストが行われた。
 交流電化方式は、2万ボルトの交流電流を架線に流し、機関車はパンタグラフから取り込んだ交流電流を、車体に積んだ整流器で直流に変え、直流モーターを動かす方式。(今では交流モーターの電車も登場しているが、当時は、鉄道車両用の交流モーターは実用化されていなかった。)仙山線は、1937年の開通当時から、面白山トンネルを挟んだ作並―山寺間だけが直流電化されており、新方式のテストには最適だったと言える。
 仙山線でのテストを踏まえて、1957年、北陸本線の田村―敦賀間が交流電化された。北陸本線は米原が起点だが、直流の東海道本線との架線電流の切り替え設備がまだできないことから、2つ先の田村までは、まだ蒸気機関車による接続をしていた。(現在は、米原―長浜間が直流に変更され、大阪方面からの通勤電車が直通している。長浜以北は交流だが、交流と直流どちらでも走れる機関車や電車が、敦賀方面へ走り抜けている。)
 北陸本線での交流電化はすぐに東北本線に応用された。すでに直流電化されていた黒磯を切り替え駅として、1959年に白河まで、1960年に福島まで、1961年には仙台までが交流電化された。この区間に使用する交流電気機関車として、ED71型が配置され、黒磯―仙台間で客車や貨物を引いていた。ぼくはこの機関車のスタイルがとても気に入っていたのだが、今はすべて廃車になっている。


 
重連で奥中山を越えるED75型。 1970.8.4.  東北本線御堂−奥中山(岩手県)
 東北本線の電化は、1965年に盛岡まで延びた。仙台―盛岡間には、1963年から製造が始まったED75型が使用された。1968年に青森までの全線が電化されると、ED75の
活躍範囲は北へ広がった。
 東北本線青森電化と同時に、奥羽本線の福島―山形間が交流電化された。板谷峠を越える福島―米沢間は、1949年に直流電化されていたが、東北地方の交流電化の進展と合わせて、山形までが交流電化となった。
 急勾配を抱えるこの区間の専用機関車として、ED78型とEF71型が配備された。東北本線のED75を長くしたスタイルで、EF71に初めて会ったときには、運転席の窓にツララ切りのプロテクターをつけた、いかつい姿が印象的だった。
 ED78は仙山線にも使用されていた。仙山線には、交流電化のための試作機関車、ED91型(新製当時はED45型といった)も残っていて、ぼくが初めて仙山線に乗った1969年夏には、ぼくの乗ったディーゼルカーが熊ヶ根でED91型21号機の引く旅客列車と交換したのだが、翌1970年3月に廃車となり、ぼくはまともな写真を撮ることができなかった。
 ED78もEF71も、線路幅を広げた山形新幹線開業によって仕事場を奪われ、今では見ることはできない。
 

 
 プロテクターが頼もしいEF71型。  1970.3.13. 奥羽本線 赤湯

 東北本線郡山と信越本線新津を結ぶ磐越西線は、1967年に郡山―会津若松間が交流電化された。その後、電化は喜多方まで延びて現在に至っている。この磐越西線用の電気機関車としてED77型が登場したが、旅客列車の電車化と貨物列車の削減もあって、1993年までに廃車になってしまった。

 会津若松駅で会ったED77型901号機。「901」とは、最初に造られた試作機を示す番号。 1974.1.

 1968年10月の東北本線電化の後、本線の電化工事は日本海縦貫線の中でまだ蒸気機関車が走っていた奥羽本線秋田―青森間と、羽越本線新津―秋田間で行われた。1971年10月に、奥羽本線秋田―青森間(奥羽北線)が電化開業したが、この区間には、東北本線用のED75型の耐雪装備を強化した、ED75型700番台が新製配置された。

 
 コンテナ列車を引くED75型700番台。
 1974.3.14. 奥羽本線北金岡―南能代信号場

 
 1972年10月の羽越本線の電化とともに、新しい顔立ちの電気機関車が東北に姿を現した。EF81型である。
 羽越本線は、新潟からの通勤エリアである村上までを、信越本線と同様の直流として、直流型の電車を走らせ、村上から秋田までは、東北本線、奥羽本線と同様の交流での電化となった。したがって、新潟から秋田まで直通する電気機関車は、直流でも交流でも走れるタイプでなければならない。
 このとき東北を走っていた特急電車や急行電車は、交直両用で、運転席に切り替えスイッチがついていた。電気機関車では、常磐線(上野から、茨城県に入った取手までが直流で、取手駅と次の藤代駅との間に、交流への切り替え区間がある)で1962年から、EF80型が使われていた。
 一方、交流電化された北陸本線と、直流電化の信越本線との直通運転のために、1968年に、EF81型が誕生した。この機関車は、数年後の羽越本線交流電化をにらみ、西日本の商用周波数である交流60ヘルツを使っている北陸本線と、直流1,500ボルトの信越本線、そして東日本の商用周波数の交流50ヘルツを使用する羽越本線を直通運転できるように造られていた。羽越本線電化のときには、このEF81型が増備され、酒田機関区に配置された。
 EF81型は、同じ交直両用のEF80型と、形(正面2枚窓)も色(ローズピンク)もよく似ていた。それまでに東北地方に配備されていた交流電気機関車たちは、正面に貫通扉がついた「3枚窓」のスタイルで、色は赤、というより、臙脂(エンジ)色で、ぼくはこの交流電機のスタイルと塗色がとても気に入っていた。だから、EF81に対しては、その実力は認めるけれど、個人的にはあまり「好き」とは言えなかった。

羽越本線電化に備えて、秋田機関区に顔をそろえたED75型(700番台・右)とEF81型。 1972.9.●
 EF81は、その後、東北本線や常磐線にも進出し、寝台特急や貨物列車を引くようになった。今もその姿を見ることができるが、塗色がローズピンクから交流機と同じ赤に変わったものが多く、ぼくは少し彼らを見直している。
 1988年の青函トンネルの開通にともなって、ED75型700番台の半数近くが、ED79型に改造されて、北海道の函館(五稜郭)までの貨物列車を引くようになった。また、1999年からは、JR貨物の高性能機関車EH500型が、東京から五稜郭貨物ターミナルまでの直通運転を行っている。現在、東北地方で現役として活躍している電気機関車は、ED75、ED79、EF81、そしてEH500型の4種類。その中で、しだいに数を減らしているED75型のことが気がかりな、最近のぼくである。

 高校時代、東北へ向かう夜行列車が黒磯に着くと、薄暗い構内に、赤いED71やED75の姿が見えた。いよいよここから東北だと、ぼくは静まり返った列車の中で、胸をときめかせた。大学時代、上野へ向かう夜行列車が黒磯に着くと、青や茶色の直流機関車の姿に、不思議な懐かしさを覚えた。
 赤い交流電気機関車たち……。ぼくにとってそれは、東北の鉄道の、一つの時代の大切な記憶なのだ。

 鉄道民俗学トップにもどる         ホームページのトップにもどる