ディーゼル急行の時代
 
   下り急行「むろね1号」がタブレットを渡して通過する。
    1976.1.17.  大船渡線 上鹿折(かみししおり・宮城県)


 「ゴゴゴン」
 鈍い音とともに、、戸袋窓の中から、ガラスに防護柵のついたドアがゆっくりと動いて、デッキとホームを遮断した。
 「ブーッ」
 運転席で、車掌からのブザーが鳴ると、運転士はタイフォンのペダルを踏む。
 「ファーン」
 運転士がハンドルを手前から左に動かすと、エンジンが「グルルルル」と唸り、列車はゆっくりと動き出す。屋根の排気塔から、紫色の油煙がたなびいて行く。

 ディーゼルカーは、エンジンの唸りを乗客が直接感じることができる、実に魅力的な車両である。現在では、軽量・高出力の新型ディーゼルカーが増えてきたが、まだまだ、1960年代から70年代の、国鉄全盛期の雰囲気を残す車両も、パワーアップされてローカル線の列車に使われている。その中には、かつて急行列車として本線からローカル線へ直通していたディーゼルカーもいる。キハ58型がそれだ。
 
 国鉄ディーゼルカーの系譜
 ここで少し、国鉄時代に製造されたディーゼルカーの形式と使われ方について、簡単にまとめてみよう。
 キハ17型の誕生 
内燃機関を車体の下に取り付けた車両の製作は太平洋戦争前にまでさかのぼるが、本格的な発展のきっかけは、液体変速機をそなえたDMH17型ディーゼルエンジンの開発と、先頭車の運転席から後ろの車両のエンジンもすべて制御できる「総括制御」方式の完成による。1953年から製造が始まった、「キハ17型」の仲間が、それである。
    キハ17型(手前)とキハ20型  1972.3.24. 奥羽本線羽後境 (秋田県)
 「キハ」の「キ」は、気動車(ディーゼルカー)の「キ」。「ハ」は、普通車を意味する。(グリーン車の場合は、客車も電車も共通して、「ロ」。ディーゼルカーのグリーン車は、「キロ」である。)
 キハ17型の仲間は、運転席が車両の片側か両側か、また、トイレがあるかないか、そして、郵便室や荷物室がついているものなど、タイプによって型式が違うものの、客席の窓が2つに分かれていて、上の窓が小さく、丸みを帯びているのが特徴だ。鉄道ファンはこれを「バス窓」と呼んでいる。そして、車体がスリムなのが、もう一つの特徴。上の写真でも、向こう側のキハ20型とのサイズの違いがよくわかる。
 この、キハ17型の仲間は、キハ10、キハ16など、10番台の形式番号だったので、ふつう、「キハ17系」とか「10系気動車」などと呼ばれていた。1970年前後の東北地方では、男鹿線や五能線、阿仁合線、左沢線、陸羽東線、陸羽西線などのローカル線の他に、客車列車が中心だった東北本線、奥羽本線、羽越本線の区間列車にも、一部で使われていた。もちろん、いまはJRの現役からはすべて退いている。
 キハ20系
キハ17系は、ビニール張りの狭いボックスシートで、通路側の肘掛もなく、当時の客車よりも内装は見劣りがした。そこで、1957年から、車体を大きくして内装を改善したキハ20型とその仲間が、各地に配備された。この仲間は「キハ20系」と呼ばれた。
 キハ20系には、北上線の章で書いたキハ22型やキハユニ26型、そして勾配のきつい花輪線や山田線用には、エンジンを2基積んだキハ52型が配置された。キハ20系も、その多くはすでに廃車になっているが、2基のエンジンを搭載したキハ52型は、数は減ったものの、かろうじてまだ現役として働いているのがうれしい。

   
    半分が客室、半分が郵便・荷物室のキハユニ26型
        1970.3.15.  花輪線 龍ヶ森 (現・安比高原・岩手県)


 キハ55系(準急型)
 キハ17系やキハ20系は、ローカル線の普通列車用として製造されたが、ディーゼルカーの機動性を優等列車にも活用しようと、客車並みの車内設備で誕生したのが、キハ55系だった。エンジン2基のキハ55型と、エンジン1基のキハ26型、それにキロ26型で、1956年に、上野―日光間の準急「日光」としてデビュー、さらに勾配区間の多い中央本線などにも準急として登場、全国に活躍場所を広げていった。
 1968年10月のダイヤ改正で、「準急」は急行に統合されて、列車種別としては消滅したが、しばらくは次に述べるキハ58系に混じって急行用として使われ、その後しだいに、普通列車の運用に回された。車体の塗り分けは、普通列車用のディーゼルカーとは赤とクリームが逆の急行当時のままで混結されているので、一目で見分けがついた。
 キハ55系も、今は思い出の中である。
  
    普通列車として使われていたキハ26型  
                1971.3.22.  陸羽西線 古口
 (山形県)
 キハ35系(通勤型)
 東北では見たことがなかったが、都市近郊の混雑の激しい非電化区間の通勤通学用に、3ドア、ロングシートのキハ35系が1961年から製造された。まだ電化前の千葉県内の各線や、関西本線などを走っていたが、ボックスシートの好きなぼくは、この車両をなるべく避けていた。

 キハ58系
 
 「ディーゼル急行の時代」の主役、キハ58系は、1961年から製造され、1970年前後の東北地方では、ほとんどのディーゼル急行列車に使われていた。キハ55系と同様、エンジン2基のキハ58型、エンジン1基のキハ28型、そしてキロ28型でチームを組んでいた。
 キハ58系の特徴は、幅の広い車体の裾を絞ったスタイル。このころ東北本線を走っていた電車急行の「まつしま」や「いわて」と比べても、あまり見劣りがしない、洗練された車両と言えた。
     
キハ58系11両の長い編成で走る上り急行「きたかみ1号・たざわ1号」      
  1972.5.7. 奥羽本線羽後境―大張野  (秋田県) 
      
 
 キハ58系は、北海道用のキハ57系などを含めて、1969年までに1818両が製造され、全国で急行列車として活躍した。しかし、電化の進展と急行列車の削減(特急と快速への両極化)によって、急行としての運用から、快速・普通列車として使われるようになり、通勤通学輸送のために座席を一部ロングシートに改造される車両もあった。 
 国鉄分割民営化後の1990年、JR東日本に、軽い車体に強力なエンジンを積んだ新性能のキハ100系、110系が登場すると、在来型のディーゼルカーの廃車がすすみ、キハ58系も、その数を大幅に減らしている。
 キハ40系
 1977年、キハ58系と正面スタイルがそっくりな、普通列車用ディーゼルカーが誕生した。このキハ40系の配置によって、もう年月を経て古くなり、車内設備の貧弱さも気になってきたキハ17系の置き換えがすすんだ。キハ40系は、今でも五能線や八戸線、男鹿線、それに羽越本線や磐越西線などで使われている。だが、ぼくが秋田にいたのは1976年3月までなので、東北で出会ったのは最近のことである。

 特急型ディーゼルカー
 客車特急よりも速く、そして「こだま」型電車特急並みの内装を備えた特急型ディーゼルカーとして、1960年10月改正で東北本線にキハ81系の特急「はつかり」が登場した。「こだま」型特急電車のような、ボンネット型の先頭車が特徴で、1968年10月の東北本線完全電化後は、奥羽本線の特急「つばさ」、そして羽越本線の特急「いなほ」として活躍した。
 1961年には、改良型のキハ82系が登場し、大阪から青森までの日本海縦貫線を走破する特急「白鳥」と、上野―秋田間の「つばさ」の運転が始まった。このキハ82系は、全国各地に配備され、ディーゼル特急の代表格となった。
 1968年には、高出力のエンジンを積んだキハ181系が登場、特急「つばさ」は1970年からこの形式になって、1975年の奥羽南線の電化まで、秋田―仙台間の特急「あおば」とともに活躍した。そのあと、東北地方にディーゼル特急が走ったのは、秋田新幹線の工事のために田沢湖線が運転を休止していた間に北上―秋田間に臨時に走った「秋田リレー」号だけである。
   
   キハ181系の特急「つばさ」   1974.4. 奥羽本線 峰吉川―羽後境(秋田県)

 ディーゼルカーの機動性
 特急型は別として、国鉄のディーゼルカーには、すばらしい特徴があった。それは、他の形式のディーゼルカーと連結して、一つの列車として走行できること。エンジンと動力伝達方式が共通なので、たとえば古いキハ17型と真新しいキハ58型を連結して走ることもできた。
 また、両端に運転席がある車両なら、1両だけでも走ることができるし、機関車がいらないので、折り返しも簡単にできる。電化されている線区も含めて、線路があればどこでも入っていける。
 さらに、勾配の急な線区には、エンジン2基の車両を混結すれば、登坂力をアップすることができる。たとえば、キハ17型の2両編成では、エンジンは合わせて2基だが、キハ17型とキハ55型を連結すると、2両編成のエンジンは3基となる。急行列車の場合、勾配の少ない千葉県を走っていたディーゼル急行には、エンジン1基のキハ28ばかり使われていたが、東北地方では、キハ58型とキハ28型を組み合わせて、加速性能や登坂力を確保していた。
 
 東北地方のディーゼル急行の系譜
 
  東北地方の地形は、奥羽脊梁山脈と、その東側の北上高地、阿武隈高地、西側には出羽山地が南北に伸び、その間にいくつもの盆地が形成されて、中小都市が散在している。東北地方の鉄道網は、東北本線、奥羽本線、羽越本線が南北に走り、これらの本線を結ぶ連絡支線(ローカル線)が東西に通じる、ちょうど「あみだくじ」のような形をしている。そして、あみだくじの横棒に当たる連絡支線のすべてに、ディーゼル急行の姿があった。

 主要都市を結ぶディーゼル準急の出現
 1956年に登場したキハ55系による準急「日光」が人気を得たことから、このあと全国各地にディーゼル準急が登場することになった。当時、長距離列車は機関車の引く客車列車であり、キハ55系の準急は、主要都市間、または主要都市と観光地を結ぶ中距離の旅客を対象としていた。
 1959年10月のダイヤ改正で、ディーゼル準急は全国的に増発された。図(ごめんなさい。まだできていません)は、1960年10月の、東北地方のディーゼル準急網だが、すでに羽越本線をのぞいて、ネットワークが形成されている。
 特徴的なのは、列車同士の併合と分割である。仙台から陸羽東線を経由して新庄へ向かう下りの準急は、秋田行きの「たざわ」と酒田行きの「もがみ」を1本の列車に連結している。この列車は、新庄で切り離されるのだが、同じときに、米沢からの下り準急「たざわ」「もがみ」が、やはり1本の列車として新庄に到着する。新庄では、仙台発の「たざわ」と米沢発の「たざわ」を連結して秋田に向かい、仙台発の「もがみ」と米沢発の「もがみ」を連結して、酒田に向かうのである。いわば、パートナーを取り替えるわけで、上り列車も、新庄で逆の分割と併合を行っていた。
 この「たざわ」と「もがみ」の分割・併合は、1970年代になっても、急行「千秋(下り1号・上り2号)」と「もがみ」として同じように実施されていた。
 行き先の違う列車を併結する第一のメリットは、列車ダイヤが込み合っている本線や、単線で交換設備のある駅が限られているローカル線に、短い編成の列車を何本も増やさずにすむことだった。旅客も貨物も輸送量がどんどん増えていた当時、線路施設の改善がなかなか追いつかなかった。それに、1本にまとめれば、乗務員も少なくてすむ。だから、短い編成から長い編成まで、簡単に分割・併合のできるディーゼルカーの機動性をフルに生かしたダイヤ設定になったのだ。
 
  陸羽西線を走る下り急行「もがみ」。仙台発と米沢発を2両ずつ連結した4両編成である。  1970.8.3.  羽前前波―津谷 (山形県)

 キハ58系の長距離急行
   
青森発上野行き急行「八甲田1号」  1969.7.21. 東北本線 平泉 (岩手県)

 1960年に東北本線の「はつかり」、1961年に日本海縦貫線の「白鳥」と奥羽本線の「つばさ」がディーゼル特急として登場すると、まだ機関車が引く客車列車のままだった、足の遅い急行列車の改善が求められるようになった。(客車急行よりディーゼル準急のほうが性能がよかったのだ。)
 1961年にキハ58系が登場すると、勾配区間や蒸気機関車の引く遅い急行列車から、しだいにディーゼル急行に衣替えが進んでいった。東北地方には、1963年10月改正で、上野―山形間に「ざおう」2往復、「ざおう」と郡山まで併結して、磐越西線経由で新潟へ向かう「いいで」1往復、そして、夜行で上野から奥羽本線・陸羽西線経由酒田行きの「出羽」が生まれた。
 一方、日本海縦貫線には、1963年から金沢―青森間に運転されているディーゼル急行「しらゆき」に加えて、1965年には、上野から羽越本線経由で秋田まで直通する「鳥海」が誕生した。

 金沢―青森間を走ったディーゼル急行「しらゆき」。手間から2両目はグリーン車のキロ28。  1972.5.6. 羽越本線 新屋―羽後牛島 (秋田県)
 
 1966年3月の国鉄運賃値上げのときに、列車種別の見直しが行われ、100km以上の距離を走る準急(ほとんどの準急)は、「急行」に種別変更された。また、それまでの「準急」の車両も、しだいに急行型のキハ58系に置き換えられていった。これで、ディーゼル急行は、長距離輸送と中距離(都市間)輸送の、二つの形態を担うことになったわけである。
 この時期の長距離ディーゼル急行の中で、ディーゼルカーの特性をうまく利用した列車が、1965年に生まれた「みちのく・陸中」と、1966年に生まれた「三陸」である。(そのうち図を入れますね)
 「みちのく・陸中」は、上野発常磐線経由の鳴子・宮古・弘前行き、「三陸」は、東北本線経由で、青森・久慈・盛行きの、ともに行き先が3つに分かれる「3層建て」急行だった。これらが運転開始した当時は、まだ常磐線の平(現・いわき)以北と、東北本線の盛岡以北は電化されていなかったので、もちろん電車急行にすることはできなかった。それならばいっそ、と当時の国鉄の担当者が知恵を絞って考え出したような行き先設定である。上野から、鳴子温泉や三陸海岸、十和田八幡平という観光地への直通列車なのだ。また、ローカル線沿線の人たちにとって見れば、それまでなかった東京への直通列車になる。
 この「3層建て」急行は、1967年に常磐線が、1968年に東北本線が完全電化され、電車特急が東北地方を走るようになっても、生き残った。この1968年10月の改正では、上野―秋田間に奥羽本線経由で残っていた客車急行「たざわ」が、ディーゼル急行「おが1号」に置き換わった。ここで、東北地方の長距離ディーゼル急行は、最盛期を迎えたのである。
     
  キハ58系の上り急行「おが1号」。秋田発は6両、新庄で3両増結して上野へ向かう。    1973.11.8. 奥羽本線 峰吉川 (秋田県)

 その後のディーゼル急行たち
 1970年代に入ると、ディーゼル急行にも転機が訪れた。それは、長距離ディーゼル急行の、特急列車への置き換えと、急行列車の分断・再編成だった。
 「みちのく・陸中」(1968年10月から「みちのく」に改名)は、19970年10月改正で、上野から仙台までの電車急行と、仙台―秋田間のディーゼル急行「よねしろ」に分けられた。また、「三陸」(1968年10月から「八甲田1号」)は、特急「はつかり」の増発によって、盛岡―青森間の急行「しもきた」となった。
 (1972年10月時点でのディーゼル急行の図を作ったのですが、まだページオンできません。そのうち載ると思います。)
 1970年代、長距離客は特急へと移り、ディーゼル急行は、中距離客を対象とした優等列車として、その地位を維持していた。1975年の奥羽南線電化までは、上野―秋田間に、長距離ディーゼル急行「おが1号」が残っていた。
 ディーゼル急行が、中距離輸送の主役からも退いたのは、1982年の東北新幹線盛岡開業(上越新幹線も)によって、東北地方の鉄道輸送体系が大きく変わったときだ。新幹線盛岡開業と同時に田沢湖線が電化され、新幹線に接続する中距離特急列車が、東北本線盛岡―青森間とともに、盛岡―秋田(一部は奥羽北線経由で青森まで)間にも出現、その一方で、それまでの「急行」が、料金の要らない「快速」に格下げされた線区もあった。
 そして1990年代には、在来線を改軌して新幹線列車を直通させる方式で、「山形新幹線」山形開業、「秋田新幹線」開業、さらに、2000年には「山形新幹線」が新庄へ、東北新幹線は2002年に八戸まで延長された。
 東北地方で最後まで残っていた急行列車は、盛岡と釜石を結ぶキハ110系の「はやちね」だったが、これも2002年10月には快速列車となり、東北地方のディーゼル急行、いや、すべての定期急行列車が消滅した。
 
 鉄道が一番華やかだった時代

  冬枯れの山にエンジンの音が響く。列車は盛岡行き循環急行「そとやま」。 
  1976.1.18.  釜石線 陸中大橋―洞泉(どうせん・岩手県)


 今、かつての急行列車の役割を担っているのは、鉄道ではない。東北地方に路線網を広げた高速道路を走る「高速バス」である。「上野発の夜行列車」の代わりに、都内のバスターミナルからは次々と長距離バスが発車して行く。ディーゼル急行がかつて走っていたルートをたどるように、中距離の高速バスが客を乗せて走っている。
 鉄道と違って、地上設備のいらないバスは、低運賃と小回りの利く輸送で実績をあげている。この「高速バス」は、通勤客を自家用車にとられている地方のバス会社にとっては、
貴重な収入源なのだが、鉄道ファンのぼくとしては、口惜しくてしかたがない。大赤字の道路公団はこれ以上の高速道路の建設を止めるべきだというのがぼくの考えなのだが、今は歯ぎしりをしながらバスを見ているだけである。
 ディーゼル急行が東北地方を走っていた時代は、鉄道が一番華やかな時代だったのではないだろうか。蒸気機関車がどんどんなくなっていく時代ではあったが、それは鉄道の近代化と輸送力増強のためであり、鉄道を必要とするたくさんの人たちが、鉄道の未来を前向きに描いていたのだ。
 今は、新幹線ができても、並行する在来線が第三セクターにされてしまう時代である。JRや第三セクターのローカル線の廃止の声が、あちこちから聞こえている時代である。「昔はよかった」という話ではなく、今ある鉄道を守る努力を、ぼくたちはしなければならないと思う。

  夕暮れのホームに、盛岡行き急行「よねしろ2号」の発車ベルが鳴る。ディーゼル急行は、人々とともにあった。   1976.3.6. 花輪線 陸中花輪 (現・鹿角花輪・秋田県)

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