横須賀線が好きだった

ぼくは、横須賀線の電車が好きだった。
 
ぼくは、横須賀線の塗色が好きだった。今も、電車の塗色で一番好きなのは、紺とクリームの「横須賀色」である。

 海に行く電車     

 神奈川県三浦半島の相模湾側に、佐島という漁村がある。行政的には横須賀市で、国道沿いは新興住宅地の雰囲気が強いが、海岸沿いの家々は昔の面影をまだ残している。この佐島には母方の親戚がいて、子どものころのぼくは毎年夏休みに家族で泊まりがけで遊びに行き、同世代の従兄弟たちといっしょに、泳いだり魚釣りに出たりして夏の日を楽しんでいた。
 佐島へは、横須賀線逗子駅からバスで30分ほど。ぼくの家からは、地下鉄丸ノ内線で東京駅まで出て、横須賀線の電車に1時間ちょっと乗ることになる。ぼくにとって、この横須賀線に乗るのが、佐島に行くときのもう一つの楽しみだったのだ。
 今は総武線と直通になって地下ホームから出ている横須賀線だが、ぼくの子どものころはもちろん地上。1960年代前半には、特急や急行が発着する14・15番線のすぐとなりの13番線が横須賀線専用のホームだった。同じホーム向かい側の12番線には湘南電車(東海道本線の普通電車)が発着していた。横須賀線の電車は紺とクリームのツートーン・カラーの、「横須賀型」と呼ばれた70系。湘南電車にはオレンジと緑の80系が使われていた。どちらも先頭車の顔は、大きな二枚の窓に、金太郎の腹掛けのような塗り分け。この車両が生まれた1950年代の画期的なデザインだった。

70系への愛着、しかし

70系と80系のちがいは、色だけではなかった。70系は三ドア・セミクロスシートの、いわゆる「近郊型」。それに対して80系は、長距離輸送や優等列車としての使用も考えた、客車と同じ2ドア・クロスシート。
 このときはすでに急行列車用の新しい電車・153系が登場していたので、80系は東海道本線の普通電車として使われていた。車両の「格」からすれば80系のほうが上なのだが、いつも横須賀線にしか乗らないぼくは、80系湘南電車に対して、意固地な対抗意識を持っていた。「湘南電車は色がケバケバしい。横須賀線の色のほうが上品でスマートだ。」「ドアが二つなんて、客車みたいでおかしい」などと勝手に決めつけ、横須賀線に乗る自分を納得させていたのだ。
 しかし、ぼくの「70系信仰」が崩れ去るときがやってきた。1962年から、湘南電車にピカピカの新性能電車、三ドア・セミクロスシートの「新湘南型」111系(その後113系)が配置されるようになったからである。両開きのドア、ボックスシートにサイズを合わせた大きな窓を持つ「強大なライバル」は、ぼくの意固地な心に大きな衝撃を与えてしまった。隣のホームから発車する沼津行きや小田原行きの新湘南型を見送るたびに、70系に対する愛着は薄れ、湘南電車への羨望が頭をもたげてきた。
 
1963年11月、東海道本線鶴見―新子安間で、脱線した貨物列車に上下の電車が衝突、死者161人の大惨事となった。いわゆる「鶴見事故」である。
 ところが、テレビや新聞で事故現場の写真を見たぼくは、衝撃を受けた。大勢の死者を出した上下の電車は、何と言うことか、両方とも横須賀線の70系電車だったのである。
 その前年には、ぼくがよく通う常磐線で三河島事故が起きている。今度は、東海道線の事故なのに、被害を受けたのは横須賀線だ。ぼくはやりきれない思いに駆られてしまった。

初めて乗った「新湘南型」

そんな時期の、1964年11月。小学校五年生のぼくは、このとき初めて一人で佐島に泊まりに行くことになった。見送りの母といっしょに東京駅13番線の階段を上がっていくと、すでに入線していた横須賀線70系電車は、座席が7割がた埋まっていた。進行方向の右側のボックス席の、進行方向の窓側を確保したいぼくは、次の電車を待つことにした。
 旧型国電特有のモーターのうなりとともに走り出す電車を見送ると、すぐに、「13番線に横須賀線横須賀行がまいります」というアナウンスが響いてきた。じっと電車の来るほうを見つめていたぼくは、思わず「エッ」と声を上げた。入線してきたのは紺とクリームの70系ではなく、オレンジと緑の「新湘南型」だったからだ。
 これは、アナウンスのまちがいだと思った。しかし、そう思ったぼくの耳に、念を押すようにもう一度、噛んで含めるような「よこすか線、よこすか行きです」の声が響いてきた。ぼくは跳び上がって喜んだ。ライバルの塗り分けではあるものの、この電車はまちがいなく横須賀線なのだとようやく認識した。真新しい車体、金属製の窓枠、濃紺のシート。ボックス席に座り、窓を開けたぼくは、ホームの母の声にもうわの空で、初めて乗った新型電車での旅に完全に舞い上がっていた。

70系への背信

翌日、佐島からの帰り道は、バスで横須賀へ出た。遠回りだが、そこは独りの気楽さである。
 横須賀駅に着くと、ちょうど70系の横須賀線が発車してしまった。がらんとしたホームのベンチで待っていると、「東京行きがまいります」のアナウンスとともに入ってきたのは、何と、また湘南電車ではないか。何という幸運!
 行きよりも長い新型電車の旅を楽しんだぼくは、家に帰るとさっそく時刻表を取り出して、「新湘南型」の運用をチェックした。少なくとも、行きと帰りに乗ったスジは「新湘南型」のはずである。ぼくは、数字の列に色鉛筆で印をつけて浮かれていた。
 しかし、一抹の不安はあった。横須賀線の紺とクリームの塗色がなくなってしまうのではないかという不安である。だが、その不安は間もなく解消された。「新湘南型」が横須賀線の塗色で登場したのである。これでやっと、「新湘南型」ではない本物の新型の横須賀線だということを確かめられて、ぼくは大喜び。70系はいつしかぼくの脳裏から消え、横須賀線からも消えていった。

横須賀色に惹かれて

 
  中央本線の普通列車 70系(71型)  1970.10.1 高尾―相模湖

高校時代の1970年秋、中央本線小仏トンネルの相模湖側に写真を撮りに行って、久しぶりに70系(71型)の姿を見たときに、何とも言えない懐かしさを覚えた。山の中を走る70系は、実に新鮮だった。
 そのとき、ぼくは初めて気がついた。横須賀線時代の70系の写真を一枚も撮っていなかったのだ。長大編成で疾駆していた時代の70系の写真をぼくは1枚も持っていないのだ。それどころか、ぼくは113系に追われつつあった70系を、そのときは目の敵のように思っていたのだ。大きな衝撃、深い後悔がぼくの胸に突き刺さった。
 1972年春、ぼくは秋田大学に入学、蒸気機関車の撮影に走り回ったのだが、70系のことは忘れなかった。上越線では新潟色の70系の写真を撮り、実家に戻っているときには中央本線の横須賀色70系に会いに行った。
 70系は減ってしまったけれど、横須賀色はあちこちで健在だった。身延線や飯田線の旧型国電の武骨な姿に、横須賀色はよく似合っていた。それに、東海道新幹線や、583系特急電車も、EF65も、横須賀線の親類のようにぼくには思えた。
 モノクロームでの撮影が多かったぼくにとって、明度差の大きい横須賀色は、湘南色よりもずっと景色の中で映えてくれる、ありがたい塗色だった。カラーで撮っても、横須賀色はとても素敵だった。

 旧型国電に、横須賀色はよく似合った。  1970.8.  飯田線 城西

 青空の下で

秋田で4年間を過ごしたぼくは、東京に戻って就職することになった。職場が八王子市内に決まったとき、真っ先に頭に浮かんだのが、中央本線の70系の姿だった。まだ高尾以西の普通列車に使われていた70系の姿を、これから毎日のように見ることができると、楽しみにしていた。
 しかし1976年4月、就職したぼくの前に、70系はいなかった。その直前のダイヤ改正で、すべて115系への置き換えが完了してしまったのだ。ぼくの顔から、いや、体全体から、血の気が引いた。
 あきらめきれずに、ぼくは桜の咲く高尾駅から小仏への道を歩いた。やって来る普通列車はすべて115系。ぼくの大好きな横須賀色が、青空の下で輝いていた。きらいではないし、恨みはないけれど、ぼくはもう一度、横須賀色の70系を見たかった。子どもの頃のお礼と、お詫びの言葉をかけたかった。
 「ごめんね、70系……。」
 
 紺とクリームに塗り分けられたED61重連の貨物列車が、モーターを唸らせて勾配を上ってきた。ぼくは、彼らに70系への想いをかぶせるように、シャッターを押した。

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