タブレットの思い出

  
                         1970.8.23  飯田線 城西

 1970年前後には多くのローカル線で、まだタブレット(通票)閉塞が生きていた。

 千葉に初めて蒸気機関車の写真を撮りに行った1968年12月、成田線の小林駅で降りて線路端を歩いたとき、足元には腕木信号機を動かすワイヤーが張られていた。それを跨ぐように歩いていたら、突然、「ガシャン」という大きな音が頭の上から聞こえたので、びっくりして見上げると、場内信号機の腕が下がっていた。

 タブレットキャリアをもらった日 
   
 列車交換のために停車する貨物列車が進入してきた。助役氏はタブレットを受け取る腕を高く掲げた。  1970.9.5   成田線 小林


 助士からタブレットを受け取る。

 やって来た我孫子行きキハ17の運転士にタブレットを渡す。横断通路はローカル線の象徴だった。

 千葉から蒸気機関車が消えた後も、ぼくは千葉に何度か出かけている。田園風景の中を走るDLやDCを撮るため、そしてタブレット交換を撮るためだった。降り立った駅の駅員に貨物列車の時刻を尋ねると、「もう蒸機は走っていないよ」と言われたこともあった。まだ他の地区にSLが健在のとき、DLとDCだけの線区に、わざわざ写真を撮りに来る人間はいなかった。
 1970年9月、もうすぐタブレットがなくなると聞いた成田線小林駅で、DE10牽引の貨物列車の進入を撮った。DCとの交換待ちで停車する貨物列車から、若い助役が腕をグッと伸ばしてタブレットを受け取るシーンがとても印象的だった。
 成田線がCTC化されたとき、ぼくは小林駅にタブレット交換の写真を送り、ずうずうしくも、「タブレットをいただけないでしょうか」と手紙を書いた。すると、駅長から返事が来た。いわく、「タブレットは規定があって無理だが、タブレットキャリアなら差し上げます。」
 手紙の意味がよくわからないままに小林駅を訪ねると、「タブレット」とは閉塞器に入れる砲金製の玉で、それを入れる皮製の、あの、輪の部分のあるケースが「タブレットキャリア」だと教えられた。ぼくは、その「タブレットキャリア」を2つもらって、満面の笑顔で家路についたのだった。(このタブレットキャリアは、40年を経た今も、ぼくの部屋に飾られている。)

 タブレット授受器
    
  ぼくはこの「らせん形」の受け器が好きだ。 1987.12.13  八高線 児玉 
 タブレット閉塞区間の各駅には、ホームに、白く塗られた授受器が設置されていた。ぼくは、列車からタブレットを投げて引っ掛ける受器を「受け器」、タブレットを据えつけて列車の乗務員がもぎ取っていく授器を「渡し器」と呼んで区別していた。
 「受け器」はホームの真ん中あたりにあり、木製の柱に「らせん」状に曲げられた鉄棒がはめ込まれ、「らせん」の先端に白い目印がつけられていた。ホームを歩く乗客の邪魔にならないように、使わないときには駅名標などのそばに置かれ、通過列車があるときだけ駅員が抱えて線路のそばに移動させる方式が多かった。鉄棒が「らせん」ではなくU字形に曲げられたタイプも見たが、ぼくは「らせん」のほうが気に入っていた。
   
  「U字形」タイプの受け器。 通過するディーゼル急行の向こうの煙はD51のもの。      1972.8.1 山陰本線 三見
 「渡し器」は、ホームの先端近くに設置されていた。一番先端にある場合は、白い柱にホルダーが直接つけられていて、駅員(当務駅長)がタブレット(正確には、タブレットを入れたタブレットキャリア)をホルダーにはめ込む。ホーム上に「渡し器」がある場合は、白い支柱に2本の腕木がボルトで留められていて、駅員が支柱と三角形になるように腕木を組んで、線路側に張り出したホルダーにタブレットをはめ込んでいた。


 「授器(渡し器)」にタブレットの入ったキャリアを取り付ける。

 列車が来る方向を見る。キャリアの輪をもぎ取るとこちら側の金具が、手前に外れる。
 1971.3.12 総武本線南酒々井


 腕木信号機を使っている駅だと、通過列車には場内信号機と同じ信号柱にある通過信号機の腕も下げ、出発信号機の進行現示を知らせることになる。しかし、ローカル線の駅には通過信号機が設置されていない場合も多く、そんな駅では、駅員が通過列車に緑旗をかざして、出発信号の「進行」を告げていた。とにかく人手のかかる閉塞方式だったのである。
   
 駅員(右)が掲げる緑色旗を確認して、急行「むろね」からのタブレットが受け器に掛けられる。   1976.1.17  大船渡線 上鹿折

 「腕」の見せ所
 タブレット受け器を使わずに、駅員が腕で受け取ることもよくあった。これは、貨物列車が交換待ちで停車するときなど、スピードが落ちているので腕で受け取っても衝撃が少ない場合だが、それでも見ているほうはドキドキしてしまう。まさしく「腕」の見せ所である。
 タブレット区間を走る通過列車には機関助士(運転助士)が乗務していて、駅の「受け器」のらせんにタブレットキャリアの輪を投げて引っ掛け、「渡し器」に据えつけてある「輪」の中に自分の腕を差し込んでもぎ取るのだが、これもやっぱり熟練の技である。タブレットキャッチャーが装備されている車両でも、助士が腕を使うケースをよく見たのは、腕のほうが確実だったからだろうか。
  
                     1972.7.18  磐越西線 徳沢 
 以前、蒸気機関車時代の八高線で乗務していた機関士OBが、
「助士時代に、夜の乗務でタブレットの受け取りに失敗して、機関士が急ブレーキをかけて列車を止め、バカヤローと怒鳴られながら、暗いバラストの上で、泣きそうになりながら、タブレットを必死に探したことがあったよ。」
というエピソードを語ってくれたことがある。
 今でも「安全、確実なすばらしいシステム」として書かれることが多いタブレット閉塞だが、それを支えていた人たちにとっては、苦労の多い毎日だったのではないだろうか。

 「三種の神器」
  
   「三種の神器」がそろっていた花輪線。  1970.3.16  龍ヶ森
 1970年ごろの東北地方には、あちこちに通票閉塞線区が残っていた。ぼくが写真を撮った線区では、行き止まりのローカル線はもちろん、磐越西線(西部)、陸羽西線、田沢湖線(秋田側)、五能線、そして花輪線にもタブレットが使われていた。腕木信号機も健在で、蒸気機関車とタブレット、腕木信号機の「三種の神器」の揃った線区が、ぼくにとって一番理想的な撮影地だった。雪国では転轍機と腕木信号機を繋ぐケーブルが背の高さくらいのところを通っていて、理由を駅員に聞いたら「雪に埋まらないようになっている」と言われて納得したのも思い出である。
 蒸気機関車8620時代の花輪線は、まさしく「三種の神器」で、高校生のぼくは、その世界をたっぷりと味わうことができた。花輪線の腕木信号機とタブレットはJRになってからもずいぶん遅くまで残っていて、CTC化後は国鉄形ディーゼルカーが国鉄色で走るという演出がファンに大歓迎されたのは、まだ記憶に新しい。

 北上線
  
   上り「きたかみ1号」が運転停車する。    1972.3.25  陸中大石
  
               下り「あおば」が通過する。 1972.3.25  陸中大石

 1972年からの秋田大学時代には、北上線によく通った。北上線は色灯信号機だがタブレットが現役で、DD51重連の貨物列車やDC急行「きたかみ」、それにキハ181系の特急「あおば」までがタブレット授受を行なって通過していた。普通列車もキハ22とキハユニ26だけの整った編成で、ローカル線というよりも、東北本線と奥羽本線を結ぶ重要な連絡支線の役割を持っていた。北上線には「景色と車両とタブレット」の、「新・三種の神器」が揃っていたのである。
 奥羽山脈の鞍部を越える北上線には、サミットにトンネルがなく、ゆったりとした高原を走りながら勾配が上りから下りに変わるという、峠越えにはめずらしい線形。ぼくは誰もいない撮影地で自由にアングルを決めることができた。
 
 タブレット交換をよく撮ったのは、陸中大石(現・ゆだ錦秋湖)である。秋田から奥羽南線の一番列車に乗り、横手で北上行きの先頭車・キハユニ26に乗り換えるのが、いつものパターン。陸中大石で降りて駅の近くで普通列車やDD51の重連回送を撮ってから、再び駅に戻る。この駅では午前中に、上り急行「きたかみ1号」が運転停車をして下り特急「あおば」が通過するという、豪華な列車交換を見ることができた。一人勤務の駅長と、列車を待つ間に立ち話をするのも楽しみで、ダム湖の畔の小さな駅は、おだやかな時間がゆったりと過ぎて行く、ぼくにとって「至福の場所」だった。
  
                    1973.3.27  北上線 陸中大石

  
   DD51重連の貨物列車を待たせて、上り特急「あおば」が通過する。
                         1975.8.1 北上線 相野々 
 
 
  
   夕闇に浮かぶタブレットキャリアの輪に、たくましい腕が突き刺さる。
                               1975.8.1 北上線 相野々

 待合室の晩餐
 陸中大石では、待合室で一夜を明かしたこともあった。
 1975年8月、奥羽南線に不通区間が生じたため、特急「つばさ51号」(DD51+14系)と寝台特急「あけぼの」、急行「津軽2号」が北上線を迂回することになった。ぼくは、すでに就職して釜石に住んでいた秋大鉄研の先輩O氏を誘って、迂回列車の撮影に出かけた。待ち合わせ場所は、夜の陸中大石駅である。
 ぼくは早朝に秋田を出て、DD51初期型の引く上り「つばさ51号」や貨物列車の写真をたっぷりと撮り、夕刻に陸中大石駅に戻った。そして泊まり勤務の助役に、「すみません、迂回の「あけぼの」の写真を撮りに来たんですけど、待合室で泊めていただけますか?」と頼み、笑顔で承諾を受けた。そこで、O氏を待つ間に夕餉の支度。灯油のコンロで飯を炊き、ホワイトシチューを煮込む。実は、翌朝の撮影を終えてから、ぼくは早池峰山に1泊2日で登るので、炊事用具もシュラフもキスリングザックに詰めての撮影行なのである。
 最終列車に乗る乗客が何人か待合室にやって来た。ぼくは、「こんばんは」とあいさつをしながら、いい匂いをたて始めたシチューの番をする。今考えても、笑えてしまう光景だ。

 その最終列車で、O氏がやって来た。助役氏は、「火の元に気をつけてな」と笑って、戸を閉めて行った。ぼくたちは、待合室での晩餐をたっぷりと楽しんで、シュラフに潜り込んだ。

 霧の「あけぼの」
  
  北上線を迂回する急行「津軽2号」。 1975.8.10 北上線陸中大石―陸中川尻
 翌朝、少し冷え込んだ朝は、明るくなっても霧に包まれていた。ダム湖を渡る第二和賀川橋梁を見下ろす俯瞰ポイントに、ぼくたちは立っていた。しかし、「あけぼの」の通過時刻が迫っても、鉄橋は霧に包まれていた。
 「ピィーッ」とホイッスル。続いて、「ダダダダダダッ、カタッ、カタン」という列車の響きが、霧の中から聞こえてきた。ぼくたちは、ため息と笑いで、「あけぼの」の通過を確認した。
 その1時間ほどあとの「津軽2号」の時刻には、霧がだいぶ晴れてきた。何とか写真に収めたぼくは、この日の一日を撮影にあてるO氏と別れて山を降り、ダム湖の橋を渡って陸中大石駅に戻った。
 助役氏に昨夜の礼を言い、キスリングザックをホームにおいて、北上行きの列車を待った。となりに立つ助役氏の肩には、タブレットを入れたキャリアが頼もしく掛かっていた。

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