五能線から阿仁合線へ

  
                1972.6.6        五能線 能代
 秋田大学に入学して2ヶ月、1972年のぼくは羽越本線、奥羽本線、そして五能線へと撮影の足を伸ばしていた。大学の講義も一応受けてはいたのだが、ぼくにとっての秋田は鉄道写真撮影のための長期出張のようなものだった。

 1冊の文庫本
 五能線は、高校生のぼくの憧れの線区だった。
 ぼくにとっての五能線のイメージを決めたのは、1冊の小さな本だった。それは保育社のカラーブックス『蒸気機関車』。著者は30代の新進カメラマン、廣田尚敬さんである。1968年に出版された定価250円のこの本は、2009年の今も、ぼくの書架にある。
 この小さな本の中には、廣田さんの感性が濃縮されていた。この『蒸気機関車』と、同じころに発売された写真集『魅惑の鉄道』が、ぼくの写真と文章の教典となった。
 廣田さんにはお会いしたことはないが、『レイルマガジン』272号にぼくが交通博物館の思い出の文章を書かせてもらったとき、添えられた写真が廣田さんのものだったので、ぼくは大感激してしまったのである。
 その廣田さんの『蒸気機関車』の、8620形のカラーページが五能線の冬景色だった。岩館―大間越での写真で、「凍てついた車窓から見えるのは鉛色の海だけである」というキャプションが添えられていた。ぼくはこの写真にも文にも引き込まれてしまったが、高校時代は花輪の叔母の家に泊まって花輪線の写真を撮っていたので、五能線とは縁がなかった。

 陽光は眩しかった

                    1972.6.6  北能代―鳥形
 大学に入ったとき、花輪線では消えていたが、五能線の8620はまだ残っていて、最後の1年間だと教えられた。そこで6月6日の火曜日に、講義を自主休講して秋田駅から下りの1番列車に乗り込んだ。
 朝は能代口の通勤通学列車を撮り、岩館へ。駅前から国道を大間越に向かって歩いた。この日の狙いはもちろん、昼ごろに相次いでやって来る8620の混合列車である。
 ところが、撮影ポイントが見つからない。5万分の一地形図は持っていたものの、初めての五能線でロケハンもしていないのだ。駅間が10キロメートル以上もあるのに、これは無謀だった。
 下り733列車の岩館発車時刻になっても、国道から線路が見えない。これは大変だ。草むらにガサガサ入っても、あるはずの線路はさらに丈の高い草の向こうである。
 焦っているうちに、甲高い汽笛が聞こえてしまった。ドラフトの音も近づいてくる。煙突と二つのタンコブが、草の向こうを動いて行った。6月の日差しの下で、ぼく汗びっしょりになっていた。
 1730列車は、陸奥岩崎交換でやって来る。もう同じ失敗はできない。そこで、あまり歩かずに、海岸段丘の上の線路が見える場所を見つけて列車を待った。今度は写真は撮れたけれど、ぼくの五能線のイメージからは遠かった。
  
  
                      1972.6.6    岩館―大間越

 前夜のできごと
 これはじっくりロケハンをしなければならない。それには日帰りでは無理だ。そこで翌週、今度は1泊2日で出かけることにした。宿泊地は無人駅の待合室である。
 ぼくは高校時代、野球部に半年いた後、ワンゲルに移籍して山歩きをしていた。だからシュラフも炊事用具もキスリングザックも持っている。待合室を利用すれば、テントよりも安心だ。
 出かける前の日の夜、ぼくは寮の自室で荷造りを終え、同輩の部屋に行ってコーヒーを飲みながら、翌日の話をしていた。すると、たまたま居合わせた3年生が、明日は五能線に出かけると言ったぼくに、とつとつと話を始めたのである。
 この先輩は、北秋田郡阿仁町(現・北秋田市)比立内の生まれ。高校時代は阿仁合線の終点・比立内から米内沢まで、「汽車通」をしていたのだった。
 「五能線もいいが、オマエ、一度、阿仁合線サ行ってみろ。阿仁は山の景色が、とてもいいんだ。」
 目を細めて遠くを見ているような先輩の言葉を聞いているうちに、ぼくは翌日の行き先を、まだ行ったことがない阿仁合線に変えてしまった。
 五能線は8620、阿仁合線はC11。だが、高校時代に雪の中を走る花輪線のハチロクを見てきたぼくは、夏場の五能線に物足りなさを感じていた。そこへ、先輩の、故郷への思いを込めた言葉……。ぼくは1泊2日の撮影の行先を、阿仁合線に替えてしまった。

 初めての日は、雨
    
                        1972.6.13  阿仁合線 小渕
 翌日、6月13日の水曜日は、朝から小雨が降っていた。秋田からの1番列車のガランとした車内で、ぼくは不安と緊張に包まれていた。無人駅に泊まるのは、この日が初めてなのである。
 鷹ノ巣で待ち時間がだいぶあるので、駅ソバで体を温める。ヤッケはあるし、靴は登山靴だし、シュラフもあるのだから何も心配ない、と自分に言い聞かせる。待合室は人でいっぱいだ。そのうちに改札が始まった。
 ホームに入ってきたディーゼルカーを見てびっくり。4両ほどの編成の列車から、高校生や通勤客がどんどん降りてくる。待っている客も多い。目立つのは大きな荷物を持った行商らしい人たちだ。ぼくは圧倒されてしまった。高校時代の4回の東北旅行で一度も来たことのない、鉄道雑誌にも登場しないような小さなローカル線に、エネルギーがこんなにぎっしり詰まっているなんて。
 前田南という小さな無人駅で、ぼくは列車を降りた。雨は小止みになっていた。同じ列車から降りた、赤ん坊を背負ったお母さんが、列車を追いかけるように、そのまま線路を歩いて行く。その向こうには山が雨に煙っている。ぼくは列車が見えなくなった後も、景色の中の母と子の姿をじっと眺めていた。
  
                         1972.6.13  前田南
 小渕の一夜
 この日の泊まりは、前田南の一つ先の小渕に決めた。待合室の窓ガラスが3枚破れていたが、風下なので風は入って来ない。近くには小さな商店もあり、何かあっても助けてもらえそうだ。
 夕方の列車の写真を撮り、上りの最終列車が出てからシュラフを出す。もう、帰ることはできないのだから、ここで寝るしかないのだ。鉄研の先輩から、「最終が出てから少し立つと駅の明かりが消えるから気をつけろ」と教えられていたので、ヘッドランプを手元に置く。
 少しして、下りの最終列車がやって来た。C11の引く客車で、小渕は通過である。機関車の息づかいとレールの響きを聞いたら、もう眠くなってしまった。
 結局、待合室の明かりは消えなかった。そのために、夜中に大きな蛾が顔に乗っかってきて驚かされたが、またそのまま寝入り、あたりが薄明るくなってから再び目を覚ました。もう、田んぼの朝が始まっていた。
 上りの1番列車は、前夜に阿仁合に泊まったC11が引く客車。このころ、ほとんど気動車化されたローカル線にも、朝夕の通勤通学列車に客車が使われている場合が多かった。この阿仁合線222列車を撮るには、自家用車を利用するか、現地に泊まるしかない。小渕の一夜は、まさにこのためにあったのだ。
 小駅を発車したC11は3両の客車を従えて、カーブの築堤をゆっくり加速してきた。雨上がりの冷たく湿った朝、きれいな白煙が印象的だった。
   
         阿仁合線222列車。     1972.6.14 前田南―小渕     

 萱草鉄橋
 阿仁合線の2日目は、すっきりした青空が広がってきた。小渕から阿仁合まで乗った下りの1番列車の車掌がホームのぼくを見て、「泊まったのかい?」と目を丸くした。ぼくはにっこり笑って「ハイ!」と答えた。
 阿仁合駅で下り貨物列車の到着と入換、そして折り返しの上り貨物の発車を撮ると、今度は比立内からのディーゼルカーが到着。キハ11からはたくさんの人たちが降りてきた。笑顔の人が多い、山の駅の朝だった。
 阿仁合から終点の比立内までは、昼間の列車が6時間以上ない。いや、貨物列車は1往復あるのだが、ぼくの移動の手段がない。そこで、次の荒瀬まで歩いて比立内行きのディーゼルカーの走行写真を撮り終えたぼくは、比立内への道を歩きながら、後ろから車が来るのを待った。
 ちょうどよいタイミングで、営林署のマイクロバスがやって来た。手を振ってバスを停め、運転士に声をかけた。
 「すいません、萱草まで乗せてもらえませんか?」
 生まれて初めてヒッチハイクを経験したぼくは、仕事に向かうオジサン、オバサンたちの物珍しそうな視線と質問を浴びながら、カーブの山道を走るバスに揺られていた。
 萱草の踏切で、「もっと乗って行けよ」と言われながらお礼を言ってバスを降りた。走り去るバスのその先に、高くて大きなアンダートラスの鉄橋が聳え立っていた。ぼくは思わず「オオッ!」と声を上げてしまった。これが「萱草大アンダートラス」との初めての出会いだった。 
  
                     1972.6.14   萱草―笑内
 「萱草大アンダートラス」は、今も朱色の姿で青空に聳え立ち、通過する列車を支えている。
   
 国鉄阿仁合線は、第三セクターの「秋田内陸縦貫鉄道」となって鷹巣―角館間が全通、以来20年の年月が流れている。
 存廃問題に揺れていたこの鉄道も、今年、地方公共交通活性化・再生法による再生計画が国土交通省に承認され、新たな一歩を踏み出したのだが、五能線と阿仁合線にまつわる話は、まだ続くのである。
   
                         秋田内陸縦貫鉄道  萱草―笑内

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