ホームベースより

      上野駅のホーム


  
     402列車「津軽1号」から郵袋を運びだす。 1974.8.14  上野

 東北からの帰り道
 秋田県鹿角市花輪の叔母の家から、東京に帰る日が来た。
 1969年7月28日朝、陸中花輪から花輪線で大館へ。大館からはDF50の引く奥羽本線上野行き普通422列車で秋田まで。途中、二ツ井でC6119(青)の引く列車と交換した、と当時の手帳に書いてあるが、写真を撮っていない。
 秋田から羽越本線836列車に乗り換えた。機関車はやはりDF50。このとき秋田機関区にいたDF50は、翌年には西日本に転出してしまったので、まともな写真を撮ることができなかったのが残念だ。
     
      酒田で交換した821列車はC57のトップナンバーだった。
 新津行き838列車は、酒田からC57の牽引となった。夕暮れ間近い日本海の景色を眺めながら、ぼくは次の旅で羽越本線の写真を撮ろうと決めていた。それは翌年の3月になるのだが。
 838列車を新発田で降り、後ろからやって来た大阪行き急行「きたぐに」で新潟に出た。車内はだいぶ混んでいて、ぼくは食堂車の厨房のとなりのデッキで30分近い時間を過ごした。白い服を着た男性が片付けに動き回っていたことを覚えている。
 新潟からは夜行急行「佐渡7号」。車内はすいていた。初めての長い旅を、小さな手帳に書き込んだメモを読み返しているうちに、ぼくは夢の世界に入っていった。

 階段の衝撃
 夏休み後半のある日、ぼくは上野駅の不忍(しのばず)口近くの階段で、1枚の手書きのポスターを見つけて、思わず立ち止まった。それはアルバイト募集のポスターで、連絡先は上野駅庶務課、募集対象は高校生・大学生、仕事内容は「駅務」となっている。ぼくはびっくり仰天してしまった。これはまぎれもない、国鉄上野駅のアルバイト駅員募集のポスターである。
 それまでぼくは、国鉄が一般の高校生をアルバイトとして雇うということを知らなかった。朝のラッシュ時に大学生が「尻押し」のアルバイトをしていることは新聞で知っていたし、鉄道高校として知られる岩倉高校(上野駅のすぐそば)の生徒が「実習生」の腕章をつけて改札口に立っているのを見たことはあったが、それらはぼくのような一般の高校生には縁のないものだとばかり思っていたのだ。だから、このポスターの発見は、大変なできごとだった。ぼくはその足ですぐに上野駅庶務課へ向かった。
 すぐに、と言っても、「庶務課」の場所を知らないぼくは、まず、近くの改札の駅員にその場所を聞き、中央コンコースの広小路口寄りの「駅長事務室」の表示板のある階段を、胸をドキドキさせながら上った。そして「庶務課」と書かれたドアを開けて、中を見た。一番近くの席にいた職員に、「あのう、アルバイトのポスターを見て、来たんですけど……」と声をかけると、その職員は、「あの人のところで聞いて」と、奥の席で仕事をしている年配の職員を指差した。ぼくは椅子の間を通り抜けて、その人、庶務係長に声をかけた。
 係長の返事は、ぼくの張り詰めた気持ちを、一気に落胆させた。「申し訳ないけど、もう募集は終わっているんですよ」と、訛りのある、すまなそうな声が返ってきたのである。ぼくは、もっと早くポスターを見つけていればよかったと後悔したが、気を取り直してもう一度聞いてみた。
 「今度はいつ募集するんでしょうか?」
  すると係長は、
 「今年の年末にはまた募集しますから、そのときにもう一度来なさいよ。」
と、やさしく言ってくれた。12月の始めに募集を始めるとのことなので、ぼくは、満を持してそのときを待つことにした。コンコースへの階段を下りるぼくの頭の中は、もう冬休みに飛んでいた。
   
   古豪EF57と485系「やまびこ」が並ぶ、朝の上野駅。 1974.8.14

 選択と決断
 しかし、冬休みに上野駅でアルバイトをするためには、越えなければならないハードルがあった。野球部は冬休みにも練習をする。この夏休みには「診断書」という天の助けがあったけれど、次はそうは行かない。「退部」という言葉が、ぼくの頭の中に浮かび始めた。
 2学期になり、ぼくは野球部での練習に再び加わった。もちろん少しずつ体を慣らしていくという了解をとり、2週間ぐらいかかって、他の部員と同じメニューをこなせるようになった。
 だが、8月末には八高線の蒸気機関車と出会い、9月の日曜日にも再び八高線に出かけ、次は煙が白くなってから行こうと考えているようでは、野球の練習をしていても、「心ここにあらず」である。そこで、10月いっぱいで野球部を退部して、ワンダーフォーゲル部に移ることを決意した。
 実は、4月の入学当初、ぼくは野球部に入ろうかワンゲルにしようか悩んでいたのだ。ぼくの父は本格的な「山屋」ではないが、ハイキングや低山歩きが好きで、ぼくも小学生のころから奥多摩や奥武蔵にハイキングに連れて行ってもらった。山の本を読んで、山への憧れもあった。それに、ワンゲルに入った同級生から、何度も山の話を聞いていたので、その同級生に相談して、半年遅れで入れてもらうことにした。
 ワンゲルは野球部より所帯が小さく、練習が週2回で、ミーティング(机上演習)が週1回。もちろん定例山行もある。だが、野球部よりも融通を利かせてくれたので、ぼくの鉄道趣味への支障はなく、むしろ、ぼくの地図や鉄道への知識を役立てることもできたので、うれしかった。
 野球部での半年間は、でも、無駄ではなかった。ぼくの野球好きは変わることがなく、高校の体育祭のクラス対抗戦ではキャッチャーを務めて、2年の時には相手チームの盗塁を封殺して応援団の歓声を浴びた。3年生のときには、投球練習のあとでのセカンドへのぼくの送球を見て、相手チームは誰も盗塁をしようとしなかったので、見せ場がなくて残念だった。今もぼくは職場対抗のソフトボールでキャッチャーをしているが、半年間だけの野球部体験が、30年以上経っても生きているのは、ありがたいことである。

 八高線
 
       初めて写した八高線のD51。  1969.8.29  折原―寄居
 さて、八高線である。このころ刊行されていた季刊「蒸気機関車」という本で、八高線の記事を見たぼくは、撮影に行って見たいと思い、国鉄東京西鉄道管理局(当時)の広報課に、返信用の切手を同封して、「八高線の列車ダイヤを送ってください」と手紙を書いた。列車ダイヤを管理局でもらうことができた時代である。鉄道雑誌に依頼方法が紹介されていたので、ぼくは何の心配もなく、手紙を書いた。

 1週間ほどして届いたダイヤは、何と、2分目の、緑色に刷られた本物(当たり前だが)の八高線列車ダイヤである。ぼくは小学生のころから、かつて満鉄にいたことのある父に教えてもらい、時刻表をもとに自分で列車ダイヤを書いたり、架空の鉄道のダイヤを作って楽しんでいたくらいなので、ダイヤの読み方はわかっているのだが、「2分目」というのは初めてだ。発車や到着時刻の「カギかっこ」がおもしろく、自分も国鉄関係者になったみたいでうれしかった。 
 八高線は、千葉とちがって、旅客列車はすべてDC化されているので、貨物列車の時刻がわからなければ動きがとれない。龍ヶ森や矢立峠のように、降りた駅でその駅の通過時刻を聞くのでは、他の場所に移動したときに面倒だ。だからダイヤは必需品なのである。
 次回からの東北旅行や他の線区の撮影のときにも、事前に管理局に頼んでダイヤを手に入れたのだが、他の管理局でもらったのは1時間目のもの。撮影にはこのくらいで十分間に合った。たまに撮影地でであったファンにも「ダイヤの見方がわからない」という人がいて、ちょっと優越感に浸ったものである。
 さて、1969年の8月29日、ぼくは自宅最寄りの地下鉄茗荷谷駅から池袋行きの始発(5時00分)に乗り、池袋から東武東上線寄居行き一番電車(5時13分)に乗り継いだ。寄居まで各駅停車2時間の車内で、途中の森林公園から先が単線、タブレット閉塞なので驚いた。武蔵嵐山では、駅員が自転車に乗ってタブレットを届けに来たので、さらにびっくりである。
 寄居で降りたぼくは、荒川の橋を渡り、鉢形城址の横を歩いて、八高線の踏み切りに出た。道に迷っている間に最初の貨物列車は音と煙だけしか味わえなかったが、次の貨物列車は、勾配を力強く登ってくるシーンを撮影することができた。D51型141号。これが、八高線でぼくが撮った最初のD51である。この日、ぼくは他のファンには一人も出会わなかった。
     
       9600の引く石灰石列車。  1969.8.29  折原―寄居
 八高線は、無煙化まであと1年間しか残されていなかった。この日に続いて、9月の日曜日にも出かけた。今度は、折原付近で撮影したあと、小川町から明覚方へ歩いている。さらに、12月、1月、2月と、八高線通いが続いた。ところが、当時のカメラ、コニカVAの不具合が続き、高麗川の坂はピントが合わず、越生―明覚では何度かシャッターが切れないという悲惨な事態。今思い出しても歯ぎしりする。

 上野駅へ
 12月初め、夏にできなかったアルバイトを申し込むために、ぼくは上野駅の庶務課に出かけた。夏と同じ年配のF係長が、やさしく対応してくれた。

 年末年始のアルバイトの勤務は、12月26日から1月7日までの冬休み中で、時間は15:00から23:00までの日勤と、さらに仮眠を挟んで翌朝10:00までの泊まりがあった。(高校生は深夜勤が認められていなかったので、扱いは2日間の日勤と同じ)
 時給は160円。当時のバイト料としては安いのだが、それは問題ではない。夜行列車の発車、そして到着の、一番おもしろい、いや、一番忙しい時間帯である。ただこの年は、すでに泊まり勤務(このほうが給料の効率がいい)の枠は埋まっていたので、26日から30日までの日勤と、1月1日の10:00から18:00までの日勤を申し込んだ。
 アルバイトには制服は貸与されないので、高校の制服で勤務することになる。ぼくの高校は詰襟でなくブレザーにネクタイだったので、帽子を被れば一見、本物の駅員のようだ。これはうれしい。ぼくは、胸を躍らせながら、冬休みを待った。2学期の数学が赤点でも、あまり気にならなかった。
 1969年12月26日、ぼくは緊張した顔で、上野駅の会議室に入った。回りはもちろん、知らない顔ばかりである。高校生や大学生、専門学校生、それに派遣された警察官の一隊もいる。果たしてぼくに声がかかるのだろうか。深呼吸を何度もして、ぼくは担当のF係長を待っていた。上野駅での、最初の日が、もうすぐ始まるのだ。

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