小さな旅から  南東北編
 
 雨の磐越西線
 福島や仙台など、東北の南部へは、東京からも秋田からも、日帰りができない。だから、磐越西線や会津の只見線など、東京と秋田のちょうど中間に位置する線区の撮影は、帰省やその帰りの途中に寄り道をすることになった。
 もともと、秋田から東京まで、まっすぐ帰るつもりはない。大きなザックにカメラ、湯沸しセット、着替えなどを詰め、三脚をくくりつけての旅が多かった。
 1972年、大学1年の夏の帰省は、磐越西線を寄り道した。秋田を奥羽本線の夜行で出て、郡山で磐越西線に乗り換える。そして、新津の手前の五泉から蒲原鉄道で信越本線の加茂に出て、上越線の鈍行で東京まで帰るのだ。この夏は東京から山陰への長旅を控えていたので、帰省旅行は「夜行日帰り」。それでも、初めての線区への旅は、気持ちが高ぶった。
 7月17日、秋田をガラ空きの「おが2号」で出発、郡山から、上野発の夜行急行ばんだい6号に乗り継ぐ。すると、会津若松から新潟行きの一番列車に乗れるのだ。この一番列車はディーゼルカーだが、途中の日出谷で降りると、上りの貨物列車の発車シーンを撮影できる。もちろんD51である。
 会津の朝は雨だった。会津若松からのディーゼルカーは、山都の駅に数分遅れて到着した。飯豊連峰に入る登山客が何人か、ぼくのよりも大きなザックを背負って、デッキのドアに向かった。
 ところが、この登山客の動作が、のろい。列車は遅れているのだ。もたもたしているとドアが……とハラハラしていたら、本当にドアが、「プシューッ、ゴゴゴン」と、閉まってしまった。デッキに取り残された2人は、「あっ」などと小さい声を出すだけ。エンジンが「グググ」と音を立てる。ぼくはすぐに窓を開け、ホームの駅長に向かって、手を振りながら怒鳴った。
 「出すな出すな! まだいる!」
 すぐに列車は止まり、開いたドアから残りの2人がホームに降りて、ぼくに頭を下げた。
ぼくは、ホームの駅長とあいさつを交わし、走り始めた列車の窓を閉めた。
 
 
                    1972.7.18. 磐越西線 野沢 (福島県)
 

              1972.7.18.  磐越西線 徳沢 (福島県)
 日出谷の駅には、すでに上りの貨物列車が到着して、貨車の入換作業をしていた。機関車はD51型435号機。雨が小降りになってきたので、改札口を出て、構内のはずれまで歩いて、発車を待ち構えた。
 煙突から吐き出される煙の勢いが増してきた。腕木信号機がガタンと下がった。まもなく、「ボァーッ」という汽笛。煙と、横から吐き出されるシリンダードレンの蒸気。そして、しだいに力強く響く、「ボッボッボッボッ」というドラフトの音。ゆっくりと近づいてくるD51に向かって、ぼくは何枚もシャッターを切った。


   貨物列車の発車    1972.7.18. 磐越西線 日出谷 (新潟県)


 雪の会津にて
 雪は降るところには降るものだと、改めて思った。
 1973年1月、東京から秋田への旅の途中に、奥会津の只見線を訪れた。上越線の夜行鈍行を小出で降り、まだ真っ暗な、ただ雪の白さだけが窓の明かりに照らされる只見線の一番列車で、県境のトンネルを越えた。そこでぼくを待ち構えていたのは、視界がほとんど利かないくらいの密度で降りしきる、圧倒的な雪だった。
 只見と会津川口の間にある、会津横田という無人駅で降りた。ディーゼルカーが行ってしまうと、あたりは真っ白。レールもどんどん雪で埋まってくる。心細くなったぼくは、駅前の集落を歩いてみた。あと数日も降ればすっぽりと雪に埋まってしまいそうな家並みである。そこを抜けると、もうカンジキを履かなくては歩けない。線路の横で、雪に埋まりそうになりながらポイントを決める。とても三脚を立てる状況ではない。カンジキで足踏みをしながら、
列車を待った。C11の引く貨物列車は、線路の雪をスノープラウでかき分けながら走ってきた。

       1973.1.12. 只見線 会津横田―会津大塩 (福島県)


                     1973.1.12.  会津横田駅近く

 
                           1973.1.13. 会津檜原


   1973.1.13. 只見線 会津檜原―会津西方 (福島県)
 只見線には、秋田の阿仁合線と同じ、C11型が貨物列車に使われていた。列車本数が少ないローカル線で、しかも雪の中での撮影なのに、寒くてたまらなかったという記憶はない。ぼくにとっては初めての、冬の本格的な雪との出会いに緊張していたのだろう。
 さて、ぼくの食事である。夜行で着いた朝までは、パンがあったのだが、撮影で歩き回って腹が減った昼に、集落のよろず屋で菓子パンを買った。無人駅の待合室でコーヒーを沸かしてパンを食べたのだが、パサついてあまりおいしくない。何となく袋を見ると、1週間も前の日付が印刷されている。ぼくはびっくりしたが、まあ、腐っていた様子はないし、冬の寒さの中だから大丈夫だろうと納得した。(大丈夫だった。)
 今のコンビニでは商品管理は厳しいが、田舎の小さな店では、あまり期待できない。ぼくはこのとき以来、パンなどの製造年月日(今はけしからんことに賞味期限しか書いていないものが多い)に気をつけることにした。それに、古いパンを食べるくらいなら、チョコレートをかじって腹をもたせたほうがいい。この「田舎の食品対策」は、今でも、コンビニのない撮影地で実践している。

 翌年の冬、秋田から東京に帰省するときに、再び雪の只見線を訪れた。このときは、夜行列車を乗り継いで会津若松に着き、只見線の小出行きに乗って雪景色を楽しみ、小出から上越線に乗るという行程だった。
 ところが、この計画はすぐに破綻した。この年は11月から大雪が断続的に降り、ぼくが秋田から乗った12月23日の上り急行「おが2号」は、院内峠の勾配を上ることができずに、院内までバックして、DD51をもう1両連結して峠を越えた。(このホームページの「DD51が輝いていた 奥羽南線 を見てください。)このために、会津若松からの一番の小出行きに間に合わなくなってしまったのだ。さらに、会津地方も大雪で、次の只見線会津川口行きの会津若松発車は、何と2時間も遅れたのである。これでは、午後の小出行きも、どうなるかわからない。
 とりあえず会津川口まで行ってみることにしたが、途中の駅でC11のラッセル車を待避したり、小さな雪崩が線路に押し寄せて運転士が非常ブレーキをかけ、車掌と2人でスコップを使って雪をどける騒ぎもあり、へたをすると「一晩カンヅメ」の可能性も見えてきた。
 会津川口の駅で聞くと、雪が降り続いているので、このあと小出までの列車が運転されるかどうか、わからないと言う。今ぼくが乗ってきた列車は会津若松まで戻るとのことで、ぼくは上越線経由をあきらめ、会津若松から郡山に戻って、東北本線経由で東京に帰ることにした。
 この冬休みは、1月に九州へ撮影旅行に行くことになっていて、このときの切符は秋田から会津若松・只見線・上越線経由東京都区内行きの片道普通乗車券。郡山から乗った上野行きの急行列車で、車掌に乗車券を見せて事情を話したら、「このままでいいです」と言われて、安心。いくら雪のためとは言え、実際の乗車距離は、乗車券の値段をオーバーしているはずだ。何だか、只見線で撮った写真と体験の分を得したみたいで、ぼくはちょっといい気分になったのである。


 キ100型ラッセルをC11が押してきた。 1973.12.24. 只見線 会津柳津


上り列車にタブレットを渡す。  1973.12.24. 只見線 会津坂下


 東北の「国電」

              仙石線の仙台駅   1974.4.6.

 仙石線は、東北地方の国鉄の「異端児」だった。そしてJRとなった今も、その立場に変わりはない。

 仙石線には、昔から「国電」が走っていた。東京近郊で使われた電車の「お古」が、ここに回されてきていたのだ。
 仙石線は、国鉄として誕生したのではない。1928年に、私鉄の宮城電気鉄道として仙台―石巻間が開通、太平洋戦争中の1944年に国有化された。近距離輸送を目的とする私鉄として出発したため、駅と駅との間の距離が、途中まで並行する東北本線よりもずっと短く、駅構内も狭い。
 初めて仙石線に乗ったときは、そのロケーションにカルチャー・ショックを受けてしまった。いや、仙石線に乗る前の、仙台駅の地下通路を抜けて、仙石線のホーム、というか、仙台駅とは別に離れた仙石線の仙台駅の駅舎を見て、乗る前からびっくりしたのだ。これではまったく別の世界ではないか!
 このとき仙石線を走っていたのは、戦前や戦後すぐに製造され、「旧型国電」と言われた車両たち。塗色は「うぐいす色」(ほんとうはウグイスの色ではなく、メジロの色なのだが)で、先頭車の前寄りドアには、タブレット閉塞区間の駅通過のために、タブレットが当たるドアのガラスを守るための、ヨロイのような防護柵がつけられていた。

 仙石線の仙台駅は、こんな雰囲気だった。 1972.3.4.

      1974.4.7. 仙石線 下馬(げば)  石巻行き快速電車

  この異色の「国電」に初めて乗ったのは、東北大学を受験した1972年3月。当時の国立大学は、1期校と2期校に分かれていて、地理を勉強したかったぼくは、1期は東北大の理学部地理学科を受験した。ところが、数学が苦手のぼくは、模擬試験の成績では、ほとんど合格の可能性はなく、本番の試験も、数学が1問も解けずにあきらめ、仙石線に乗って松島見物に出かけたのである。
 その仙石線の小さな旅は、とてもおもしろかった。東京の都心からは淘汰されてしまった旧型国電たちが、「都落ち」をしても元気に生きている、その姿を見ることができたし、松島海岸から野蒜への海沿いの区間は、波の少ない内湾ということもあって、海と線路がとても近くにあった。松島ユースホステルに泊まった翌日は、自転車を借りて奥松島の大高森に登り、仙台までの帰路に海辺で写真を撮り、仙台発上野行きの鈍行で帰京した。

 その仙石線に、旧型国電に代わって103系が配置され、今はさらに、山手線からの205系が登場している。ひなびた仙石線仙台駅は、すっぽりと地下にもぐり、東北本線仙台駅の西側の、あおば通駅まで路線が延長された。205系の中には、石巻寄りの車両に回転クロスシートが装備されているものもあり、最近のJR東日本の車両に大いに不満を持っているぼくは、この車両を見てほんの少し評価を上げたのだった。 
 
   1974.4.7. 仙石線 陸前富山―陸前大塚 (宮城県)

  板谷峠を越える
 板谷峠を初めて越えたのは、1971年3月29日のこと。高校2年が終わる春休みの撮影旅行の帰り、米沢から乗った上野行きのディーゼル急行「おが1号」でのことだ。
 ぼくは、このディーゼル急行が果たして峠を上りきることができるかどうか、とても不安だった。睡眠不足で、席を確保してすぐに眠ってしまったぼくが目を覚ますと、「おが1号」は雪の上り勾配を、エンジンを唸らせて、まるで自転車が坂道を登るような速度で登っていたからだ。
 列車が、やっと峠駅構内のスノーシェッドの中に入ったと思ったら、今度は、遅れている反対列車を待つために、スイッチバックしてホームにゆっくりとすべり込んでしまった。やれやれとため息をついたぼくの耳に、意外な声が聞こえてきた。なんと、雪のホームで、アイスクリームを売り歩いているのだ。
 車内は暖房が効きすぎて、暑いくらいになっている。何人もの乗客が、窓を開けて冷たい空気を入れ、そのついでにアイスクリームを買っている。ホームとは反対側の席に座っていたぼくも、「30円です」という売り子の声に反応して、ポケットから財布を取り出した。峠駅には、スイッチバックがなくなった今でも、「峠の力餅」を売る売り子ががんばっているが、ここでぼくが最初に買ったのは、アイスクリームだったのである。
 
   板谷峠を越えてきた上り特急「やまばと3号」。 1974.4.4. 庭坂―赤岩 (福島県)

 板谷峠を越える奥羽本線福島―米沢間で初めて写真を撮ったのは、1974年4月4日。この日、上野から夜行で着いた早朝から東北本線の藤田―貝田間を歩き、午後の時間を、峠への入口に当たる庭坂の大カーブで過ごした。ここは駅から30分ほど歩いた場所で、線路は福島盆地から大きな右カーブの築堤を上り、山の中に入って行く。カーブの外側からねらうのだが、西日が当たる午後がいい。
 板谷峠の主役は、EF71型とED78型の電気機関車。山形行きの電車特急「やまばと」は自分だけでさっそうと勾配を登って行ってしまうが、秋田行きのディーゼル特急「つばさ」は、EF71の力を借りて、峠を越えていた。このときの「つばさ」は、それまでのキハ81・82系に代わった、強力エンジンを積んだキハ181系。1970年のデビュー当初は単独で峠に挑んでいたのだが、急勾配での高速走行でエンジントラブルが発生したため、EF71を補機として連結することになった。このスタイルの峠越えは、1975年の奥羽本線全線電化によって「つばさ」が485系電車特急になるまで続いていた。

  庭坂から築堤を上り、赤岩への山道と入って行く。 EF71型と協調運転して勾配を上る特急「つばさ2号」。 1974.4.4. 奥羽本線 庭坂―赤岩 (福島県)

 庭坂で夕方近くまで過ごしたぼくは、上り列車で福島駅に向かった。福島駅の待合室のベンチにザックを置き、中からタオルと着替えを取り出して、カメラバッグだけを担いで街の銭湯に出かけた。
 夜行列車が夜中に発着する駅では、待合室が24時間開放されていて、冬はストーブも焚かれている。夕食を食べ、風呂で暖まったぼくは、待合室に戻って、そのまま置いていたザックから歯みがきセットを出して洗面所に行き、眠くなるまで待合室のテレビを見ていた。
 夜の9時過ぎには、前夜の夜行の寝不足のために、もう眠くなってきた。待合室も閑散としてきたので、ぼくはザックから、ユースホステルで使うスリーピング・シーツ(封筒状になっていて、中に入って寝るシュラフのようなシーツ)を出して広げ、その中にもぐり込んだ。これだけで、春の寒さは防げるのだ。そして、すぐに記憶はとぎれ、気がついたら、外が白々と明るくなっていた。 
 待合室泊まりは、高校生のときからときどきしていた。たまに酔っ払った人と同室(?)になることはあったが、うるさくて困ることはあっても、身の危険を感じたことはなかった。今なら怖くてできないだろう。それに、深夜も待合室を開放している駅も、ほとんどなくなってしまった。
 
  
 秋田行きの普通列車がやってきた。この列車は、いったん引き上げ線に入ってから、バックして、左に見えるホームに入る。 1974.4.5. 奥羽本線 赤岩 (福島県)

 翌朝は、庭坂の一つ先の赤岩で写真を撮った。赤岩は、板谷峠に4駅連続するスイッチバックの最初の駅で、他の3駅(板谷、峠、大沢)と違ってスノーシェッドがなく、スイッチバックの風景をきれいに撮ることができた。
    
 板谷峠の有名撮影地、赤岩の鉄橋を貨物列車が登る。
   1974.4.5. 庭坂―赤岩 (福島県)

 

 巨大なスノーシェッドに守られた板谷駅構内。右側は引き上げ線、左の奥にホームがある。 1975.10.20. 奥羽本線 板谷 (山形県)


 峠を駆け下りる貨物列車  1975.10.20. 大沢―関根 (山形県)

 板谷峠には、いまも特急「つばさ」が行き交っている。東北新幹線から直通する「山形新幹線」の列車だ。
 奥羽本線福島―山形間は、1992年に、線路幅を新幹線と同じ1,435ミリに改軌して、東北新幹線からの直通列車を走らせた。在来線とは別に新たな新幹線の線路を敷くのではなく、在来線を改軌・改良する方法は、「ミニ新幹線方式」と言われる。 この方式は、盛岡から田沢湖線・奥羽本線経由で秋田に至る「秋田新幹線」(1997年開業)でも採用され、「山形新幹線」は、1999年に新庄まで延長された。
 「ミニ新幹線」方式は、建設費が安い代わりに、在来線の線路幅を変えてしまうために、他の在来線区との直通ができなくなるというデメリットが生じる。また、開業当初、続発した踏切事故に、「新幹線にも踏切があるのか?」と疑問に思った人も多かったようだ。だが、ここは新幹線ではなく、今でも「奥羽本線」であり、今でも踏切があり、そして、線路端から「つばさ」の写真が撮れるのである。
 初めて東京駅から新幹線の「つばさ」に乗り、福島から奥羽本線に入ったとき、ぼくは、不思議な懐かしさを覚えた。東北新幹線の区間と違って、「つばさ」のスピードは、ガクンと落ちた。窓の外の景色が近くなり、見ていても目が疲れることはなくなった。軽快なフットワークで、「つばさ」は板谷峠を登って行く。「ミニ新幹線方式」のもう一つの長所が、昔と同じ景色を味あわせてくれることだと、ぼくはうれしい発見をした。
 板谷峠は、だから、電気機関車が消え、スイッチバックが消えた今でも、ぼくの大好きな奥羽本線なのである。
 
一度だけの米坂線
 前夜の米沢駅からこの話は始まる。
 1971年3月28日、日本海に沿った羽越本線で昼間の時間を過ごしたぼくは、列車の窓から海に沈む夕日を眺めながら、3月20日からの東北撮影旅行の場面場面をふり返り、幸福感と充実感に浸っていた。翌日の最終日は、初めて訪れる米坂線での撮影。余目から陸羽西線に乗り換え、新庄から奥羽本線の上り列車に乗って、米坂線の起点・米沢駅の待合室で、翌日の米坂線の1番列車を待つのである。
 米沢駅の待合室は、暖かかった。上り下りの夜行列車が深夜に発着するので、まだ雪の残るこの時期は、深夜もストーブがついていたのである。これで今夜はゆっくり寝られる、と思ったら、思わぬ伏兵が現れた。それは、50歳くらいの、酔っ払いのオジサンである。
 夜遅い待合室に、列車を待つ客はぼく1人。そのオジサンは、ぼくを話し相手に選んでしまった。いや、そのオジサンには、話し相手を選択する余地はなかったのである。待合室に入ってきて、少しの間独り言を言っていたそのオジサンは、ぼくを見つけて、うれしそうに近寄ってきた。そして、いっしょうけんめい話しかけ、ぼくに相槌を求めてくるのである。これはいわゆる「話し上戸」というのだろう。そして、何度も何度も、「串田孫一はすばらしい人だ、そうだよな」と、くり返す。串田孫一は哲学者だが、山歩きやスキーなど、アウトドア系の著作が多く、今のぼくなら、少しは話し相手ができるのだが、このときのぼくは、「名前は聞いたことがある」というだけだったから、いくら話しかけられても、もてあますだけ。それに、このオジサンの勢いでは、朝まで解放してもらえないかも知れない。それでは明日の行動にも差し支える。大変なことになった。
 そこでぼくは、しかたなく、米沢駅での睡眠をあきらめ、とりあえずこのオジサンから逃げることにした。上野行きの急行「津軽1号」の改札が始まったとき、ぼくは、オジサンが少し離れて後ろを向いている間に、そっと荷物を背負って改札口からホームに入ってしまった。
 このときのぼくの切符は東北周遊券で、東北エリアの国鉄には急行列車まで乗り降り自由だったので、とりあえず乗ってしまったのである。自由席は半分ほどの乗車率で、席を確保してホッとしていたら、しかし、何と、さっきのオジサンが乗り込んで来るではないか。ぼくはびっくり仰天した。すでに寝ている人も多い夜行列車の中で、酔っ払いのオジサンに話しかけられでもしたら一大事である。ぼくは見つからないように、顔を隠して寝たふりをしていた。少ししてそっと顔を上げると、オジサンはフラフラと隣の車両に行ってしまい、もうぼくの視界に現れることはなかった。
 さて、「津軽1号」で、このまま上野に帰るわけには行かない。ぼくは時刻表を出して、米沢に戻るちょうどよい列車を確かめた。すると、郡山で降りて下りの急行「出羽」に乗るのがベストである。ぼくは、やっと安心して、板谷峠を登る列車の揺れに身を任せた。郡山でも米沢でも寝過ごすことなく、ぼくは米坂線の1番列車の客となったのである。

    
   宇津峠を登る貨物列車  1971.3.29. 米坂線 手ノ子―羽前沼沢 (山形県)

 羽前沼沢の駅で列車を降り、雪囲いと一体になったような駅舎に驚いた。国道を手ノ子側へと歩く。米坂線は手ノ子と羽前沼沢の間にある宇津峠のトンネルがサミット(峠の一番高いところ)になっているので、ここでは米沢へ向かう上り列車が、煙を吐いてやって来る。
 米坂線には、大正時代に製造された貨物用の機関車9600型が、貨物列車と、ディーゼルカー以外の旅客列車に使われていた。ぼくは、父の田舎のある花輪線を走る8620型(同じ大正時代に製造された旅客用機関車)のほうが好きだったのだが、9600型が本線の列車を引くのは東北地方では米坂線だけだったので、まもなくディーゼル機関車に置き換えられるという記事を鉄道雑誌で読み、このときの旅の最終日に訪れたのだ。

    
 駅舎には「積雪日本一」の看板が掛けられていた。 
   1971.3.29.  羽前沼沢 (山形県)

 豪雪地帯の、しかも峠に近い場所なので、道路の雪は消えていても、線路の脇にはまだ1メートルほどの雪が積もっている。5万分の1地形図(当時はまだ、2万5千分の1地形図の測量は進んでいなかった)と、さっきの車窓からの景色を照らし合わせて、撮影ポイントを決めた。道路から雪の上に足を踏み出すと、もう春の雪なので、登山靴があまり潜らない。
それでも、ときどき深く入ってしまうので気を使いながら、ゆっくり歩く。やわらかい春の陽射しと、谷を渡ってくる風が気持ちよかった。
 「どこかで春が生まれてる…」
 ザックを下ろして列車を待っている間、ぼくは、大好きな歌を歌いながら、雪の上に足跡をいっぱいつけて遊んでいた。
 
                       1971.3.29. 手ノ子―羽前沼沢

 2度目の正直  陸羽西線
 1970年夏、高校2年生の夏の東北旅行は、最初から波乱に満ちていた。
 このときの旅行は、同じ高校の友人、K君といっしょだった。K君は、ぼくが半年だけ入っていた野球部の仲間だった。(ぼくが野球部を退部したのは、休み中にも練習や試合があって、旅行と両立できなかったのが理由だが、野球部での体験は、その後もとても役に立っている。)彼もまもなく野球部を退部し、「今度、いっしょに旅行に連れて行ってくれよ」と、ぼくに声をかけてきた。ぼくは、彼が鉄道ファンではないので、同行には少し迷ったのだが、ぼくの鉄道写真撮影にも付き合うというので、行き帰りと、途中の何泊かのユースホステル、
そして最初の羽越本線の撮影に同行することで、旅行計画を練った。つまり、羽越本線以外では、ぼくが線路端にいるときに、彼は観光地を巡っているというわけである。
 上野駅を新潟行きの夜行急行「佐渡6号」で出発して、新津から羽越本線の一番列車に乗り、丸1日、彼を連れてD51やC57の写真を撮り歩いた。十二分に満足したぼくは、彼といっしょに余目から陸羽西線の列車に乗った。新庄からバスで20分ほどの、最上川沿いの新庄温泉のユースホステルに泊まるためである。夕食の時間には間に合わないので、朝食だけの宿泊予約を入れていた。
 ところが、新庄に着いてびっくり。新庄温泉への最終バスは、もう出たあと。ぼくは途方に暮れてしまった。田舎のバスで20分の道のりを、重いザックを背負って今から歩くのはとても無理。そこでやむなくキャンセルして、新庄駅の待合室で一夜を明かすことにした。待合室に泊まるのは、このときが初めて。もちろんK君にも初めてのことである。ぼくはK君に申しわけなく思いながら、でも、2人で泊まるので、初体験にも心強かった。前夜の夜行とこの日の徒歩での撮影というハードスケジュールのため、2人ともグッスリ寝られたのは幸いだった。

  
何と10両編成! 1両目の後ろの乗務員室の窓から撮った。
    1970.8.3. 陸羽西線 新庄―枡形 (山形県)

 翌朝、松島見物に出かけるK君は陸羽東線に、そしてぼくは陸羽西線の写真を撮るために別れて、出発した。この朝、ぼくが乗った陸羽西線の2番列車は、山形始発で、しかも海水浴客を乗せた臨時列車「しおかぜ」号を併結した10両編成。たくさんの客が乗っているので、ぼくは1両目の車両の後ろの乗務員室(助手席側は開放されている)に陣取り、窓を開けて後ろを眺め、ローカル線に出現した長大編成を楽しんだ。
 
  
  
 海水浴臨時列車 「かっぱ号」  
     1970.8.3. 陸羽西線 羽前前波―津谷 (山形県)

 この日は、ふだんは旅客列車がディーゼルカーだけの陸羽西線に、C58の引く客車列車が走った。海水浴客のための臨時列車「かっぱ号」で、穂の出始めた稲の海の向こうを、C58が軽快に駆け抜けていった。うす曇りの空の下で、ぼくは、湯を沸かして携帯食料の「五目めし」食べ、コーヒーを飲み、実に優雅な時間を過ごしたのである。

 1971年3月、ぼくは前年の夏と同じルートで、前回の雪辱を期した。羽越本線の写真を撮り、陸羽西線で新庄に着き、新庄温泉のユースホステルに泊まろうというのである。新庄に着く時刻は同じだが、今度は途中まで行くバスに乗り、そこから4kmを歩くのだ。この、途中まで行くバスに乗るという手段に気がつかなかったために、前回は待合室で泊まるハメになった。同じ失敗は、しないのである。
 新庄温泉のユースホステルは、八向館という旅館が、相部屋・低料金で若者を受け入れている、というもの。今風に言えば、海外貧乏旅行の「ドミトリー」である。夜道を50分歩いてたどり着いた温泉旅館で、先客の2人の若者にあいさつして、ゆったりと温泉に浸かった。しょっぱくて、石鹸が泡立たない温泉は初めてだ。誰もいない浴槽の中で、ぼくは、半年前の雪辱を果たした満足感にも、たっぷりと浸ったのだった。 

 
雪解け水をたっぷりとたたえた最上川を渡る貨物列車。 
    1971.3.22. 陸羽西線 津谷―古口 (山形県)
 

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